2013年6月30日日曜日

発売後の反応③

6月も今日で終わり。
2013年も早半年が過ぎます。今までのところ、タカ牧師にとっては充実した半年でした。

やはりその充実した半年を振り返ると「福音の再発見」の発売と言う出来事が大きいモメントでした。

さて先週、6月23日午後に、御茶ノ水CLC書店で出版記念トークイベントがあったのご存知でしたか。
その時の録画(一部だけ)と音声(一部抜けている)がここで視聴できます。
今からでもライブ感を味わってもらえます。ぜひ
(画面の下の方に視聴した方たちのコメントがありますから、そちらもお見逃しなく。)

ところで、そのイベントに参加した方から以下のようなコメントがありましたのでご紹介します。
(途中略)椅子の数が足りないくらいの盛会でしたね。
発行に至る貴重なお話を伺えて有意義でした。
今度は読書会というか、講解の場を設けて頂ければ助かります。
やはり普段神学に接する機会のない者には難しいです(>_<)
「福音派」「救い派」もそうだし、「メソジスト」「長老派」「改革派」「ウエスレー」「ルーテル」「根本主義」・・など教科書に出てくるような名詞は、歴史的なアウトラインはわかっているつもりですが、個々の教義(?)となるとさっぱり (?_?)
ボンヘッファー、ナウエン、バルト・・・なども名前だけしか知らないし。
これは「福音の再発見」の中身にはない話です。
当日ミーちゃんはーちゃんが用意した「『福音の再発見』に繋がる人物、本、運動」のような関係をビジュアル化したものへの感想だと思います。 (これをクリック

「難しい」と言う印象を持たれるのは当然と言えば当然。
プロテスタントの牧師たちは一部(タカ牧師のように)難しい説教をなさいますが、その他の牧師たち、またカトリックの神父たちは日頃至ってやさしい内容の(しかし心に沁みる)お話をしているようです。


しかしこのある意味「信者フレンドリー」な環境が、「固い食べ物」を食べる習慣を阻むことになっていないか、と思ったりもするのであります。

とにかく「難しい」らしいことはタカ牧師の身近でも反応として把握しています。

ある人はこう言います。
普段仕事で忙しく働いて帰って、夕食後色々やった後にちょっと出来た時間に「福音の再発見」を開いても、読み進むエネルギーが出てこない。(この本は理屈っぽいから余暇に読むには固すぎる。)
またある人はちょっと「福音の再発見」を手にしてみたが、パラパラとページをめくって「はいっ」と返したそうです。(こりゃ私には無理や・・・)と思ったのでしょう。

そんな反応も目にし、耳にし、「福音の再発見ファンサイト」としてはがっかりもしていられません。
何か有効なアフターケアーも考えなければ、と目下検討しているしだいです。
どんなアフターケアーができるか、具体的な提案を提示できるまでしばらくお待ちください。

さて最後になりましたが、一言お礼を申したい方がおられます。

いち早く本書を読まれ、その細部にまで目を通して「言い回し」や「横書き/縦書き」「用語」「文体」などなど、まことに貴重なご意見をくださった、C教会のY兄です。
この場を借りて関係者一同お礼を申し上げます。

幸い第2刷の準備に入る前に原稿を頂いたので、色々と参考にさせて頂くことができました。

ではまた読者の反応を拾ってみたいと思います。

このブログをお読みになっている方で、ご質問等ありましたらいつでもお待ちしておりますのでお寄せください。


《あて先》 小嶋崇 t.t.kojiアットマークgmail.com




2013年6月26日水曜日

新サイトでの初仕事

いやー、タカ牧師としては「福音の再発見」応援サイトがブロガーに引っ越してきて、大変ありがたく思っています。

引越しを準備してくださったミーちゃんはーちゃんには、感謝、感謝。

で、何からやろうか、ということなのですが、引越しのどさくさに紛れてしまわないように、久保木牧師が、福音の再発見発売後の反応」への反応①へ寄せてくださったコメントにお返しさせて頂こうかなと・・・。

ではちょっとメールでの引用形式でやらさせていただきます。

インストア・トーク・イベント、お疲れ様でした。何より、1冊の本を出版するために、どれだけの労力があるかが、伝わり、FBグループ内でのコミュニケー ションと労苦がひしひしと伝わってきました。そんな労苦に対し、読んで、さらっと書いた拙ブログ記事に応答してくださること、恐縮しております。
いやいやそんな恐縮なんて・・・。
それがそれほど「労苦」と言うほどでもないんですよ。録音の方に「出版のための冒険者たち」と言う非公開の秘密のFBグループを2012年1月に立ち上げたことが紹介されていましたが、実は(このことは録音には入っていなかったと思いますが)その過程で思わぬ副産物が出たのです。

それはN.T.ライトの読書会をやはり秘密のFBグループでやろうよ、と言うことになり、そこから後のHow God Became King読書会(非公開)がスタートしていったんです。

まっこれは今となっては裏話ですが、2012年3月初め頃はそんな準備でKさんとSさんと(別に伏せる必要もないんだけどミステリアスで面白いかなと思って)3人でもう楽しい・ワクワク・・・でやっていました。
小嶋先生が、イベントの中で、「この本は福音派だけに向けて書かれた本でなく、カトリックも含め、福音を宣言する全てのキリスト者に向けて書かれている」という主旨の発言が一番印象に残りましたし、私のブログ記事はそこの理解が大変甘いものであったことは否めません。
あーあの発言ね。最後の方になされたやつですね。

昨日聞き直してみて自分でもよくぞ言ったと思いました。

もちろん久保木先生が念頭にあったのではなく、現場での楽しい雰囲気で一過性で終わったらいけない、特に誰が今後聞くことになるか分からない「匿名の視聴者」がいることを思い出して、「福音派の内輪の祭り」と言う印象で終わって欲しくないな、と思っての発言でした。
福音派、福音主義について丁寧な定義を本記事で改めてしてくださっておられることを感謝致します。
あのベビントンの「福音主義の四重の特徴(Bebbington Quadrilateral)」は、恥ずかしながら、少し福音主義の研究をやっている人なら誰でも知っている、汎用性のある定義で、別に改めてご披露するほどのものではございません。
また「久保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の 鬼子として現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。」と書いておられます が、そう受け取られても仕方がありません。ただ、マクナイト自身、行き過ぎた個人主義の問題を宗教改革が起源であるかのように97-98頁で書いているよ うにも思えます。

小嶋先生自身、「ご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。/確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でも このような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)」と 書かれてあるとおりで、この本に関して、宗教改革の理解や個人の発見について喧々諤々やっても、不毛な議論だと思いますので、わたしもこの辺で止めておき たい思いです。
そう、ここではやらなくてもいいと思うけど、実際にはパラダイムシフトがどの辺りで決定的に起こったのか、と言う丁寧な研究は必要だと思います。
私の所属教団について神学的な流れについては、またいつの日にか、小嶋先生と個人的にお会いする機会があれば、お話できればと思います。これも、この本の 有益さを広げていくには、ここで書くのもどうかと思いますので。ちなみに、K先生は高齢ですが、神学校では現役で教鞭をとっておられます。
そうですね。いつの日にか・・・。
そうですか、まだ現役で、それは素晴らしい。
いろいろ書きましたが、本書の 図3 から 図2 へどのように移行していくのか、それを日本というコンテキストの中でどのように実現していくのか、そうした建設的な取り組みを何らかの形で共同でできていければ面白いと思います。
そうですね。これっまもなくN.T.ライトが翻訳出版される時もやはり同じ課題が出てくると思います。
既にライトFB読書会ではそのことをおぼろげながら意識しながら時々ディスカッションしています。

今回の出版も色んなコラボやシナジー効果の賜物だと思いますが、共鳴できた部分をベースに発展させることがあればトライしていこうではありませんか。
そしてアイデアを提供して頂ければ・・・。
ともかく、この度の出版への道そのものが、5人の神の民としての物語であり、その物語が、読者とつながる物語となり、またインストア・トーク・イベントとして、顔と顔を合わせてつながる物語となっていることを大変興味深く思っています。
長文を最後までお読みくださり、感謝致します。
そうですね。Kさんがまとめられた背景になっている「指輪物語」、恥ずかしながら誰のこと言われているのかきょとんと聞いておりました。
一緒に旅する神の民・・・今回の企画は言わばそのミクロ版で、もう少し大きなものに拡げていければいいですね。
久保木先生も少し乗りかかっているのではないですか。 (笑)

2013年6月25日火曜日

心より御礼申し上げます



ミーちゃんはーちゃんでございます。

先日は、お忙しい中、また、日曜日の午後の教会活動があり、出にくい中、大変たくさんの方にCLCBooksお茶の水店で開催されました「福音の再発見」出版記念トークイベントにご参加いただき、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

また、当日参加できないけれども...と言う方のために、Ust中継をこころろみましたものの、中継と言いつつも画像が悪い、途切れる、突然画像が出なくなる、止まるなど、放送局であれば、局長クラス、技術部長へのけん責、減給処分が出るような放送事故の連続、誠に申し訳ございませんでした。視聴者の皆さまのご迷惑に対し、深くお詫び申し上げます。

原因はほぼ判明しておりまして、フラッシュを用いたアプリケーションの複数動作によるソフトウェアコリジョンに加え、USBの供給電力不足による断線であることのではないか、というところまでは判明しました。また、プロジェクタ利用によるブラウザの表示異常(録画ボタンが表示されなくなる)に加え、オペレータのミーちゃんはーちゃんへの、映ってないなどの人間的信号入力によるオペレータのパニック、などまさにホーマー・シンプソン状態になってしまったことに原因がございます。

しかし、そうであっても、一部録画、一部音声信号が取れたものがございますので、下記アドレスでご覧いただければ大変幸甚に存じます。



http://www.ustream.tv/channel/king-jesus-gospel-japan
(下から順番に古いものです。前半1では、37分あたりから音が途切れてますし、最初の部分が取れておりません。ボタンの押し忘れによります。)
後半から終わりにかけて では、画像が全くございません。


なお、当日ご紹介した本の表紙の決定プロセス(ゾンダーバンによる、プロモ映像・ただし英語のみ)や私どもでこれらの本を読んでいただくのがよいのではないか、という本をあげたもの(関連が近いものほど、『福音の再発見』との距離が小さくなるように配置しています)、等のアドレスは以下のとおりでございます。先に進むには、右向き矢印 元に戻るのには、左向き矢印 ズームイン、ズームアウトは、ホイールマウスの場合ホイールを前後に動かすことで見ていただけますし、画面を移動させたい場合には、画面上のドラッグで移動させることができます。

ご参考までに。

表紙決定プロセス
http://prezi.com/wg-2vxlxfcxb/?utm_campaign=share&utm_medium=copy
http://prezi.com/wg-2vxlxfcxb/?utm_campaign=share&utm_medium=copy


関連書籍のご紹介
http://prezi.com/pwlu4e3on4pf/?utm_campaign=share&utm_medium=copy
http://prezi.com/pwlu4e3on4pf/?utm_campaign=share&utm_medium=copy

「福音の再発見発売後の反応」への反応①

タカ牧師です。

久し振りです。
現在自分の教会のブログ、NTライト読書会ブログ、NTライトFB読書会、と色々抱えて少し忙しい。

発売後1ヶ月が過ぎ、昨日御茶ノ水CLCブックセンターにおける出版記念インストアートークイベント(何と長いカタカナの名前!)も無事終了し、幾らか落ち着いた。

と言うところで既にご紹介した「反応」の中から面白そうなもの(このシリーズで取りあげないものは面白くないと言う意味ではありません。)、つまりどちらかと言うと辛口の論評を込めたものを取上げてインターアクションの場としたい。

それでトップバッターは、いち早く3本も速攻で書評を書いてくれた、久保木牧師のものからスタート。

いやそれにしても身軽で機敏と言うか・・・タジタジ。

十字架の贖罪死への一点集中が「福音」?
基本的に、この本が前提とする「福音派」とは
十字架による贖罪に一点集中の「福音」理解を持ち、
聞き手に決心をさせることを重視する人たちのようです。
いちいち脚注をつけると文章がうるさくなるので読者の方々には不親切だが適当にカタカナの名前も入れながらこの掴み方を考えてみよう。(参考までに拙ブログの福音主義とは何かをご覧あれ。)

ベビントンによる福音主義の特徴の一つとされるのが「十字架中心主義」だ。もう一つの「回心主義」も久保木先生のまとめ方でカバーされている。(残る二つは「聖書主義」と「(海外伝道や社会改革に向けた、と補った方が分かりやすいかな)行動主義」)

マクナイトが問題にしているのは、確かに「十字架中心贖罪論」であり復活がかなり視界から外れていたりすることを指摘していないわけではないが、ポイントは贖罪論といって過言ではない。

ただマクナイトの問題は福音派の
(十字架中心贖罪論で代表される)救済論そのものではない。復活の後退を問題視しつつも「救済論」の中身をどうこう言おうとしているわけではない。

45 ページの図2と、55ページの図3とを比較して頂くとお分かりになると思うが、福音の福音たりえる所以は、イエスが旧約聖書のストーリーを成就するという 枠組みの中で初めて「福音」の意味が明らかになってくるのに、言ってみればその基礎部分を捨象して、上物(建物)となる救いのメッセージがその物語から切 り離されて「四つの法則」のように簡略化された形で提示されていることを「矮小化」と言って問題視しているわけだ。

久保木先生は自教団での神学教育をご披露なさっているが、大変面白かった。
恐らくナザレンの神学的伝統(アルミニアン・きよめ派)にとっては対立軸となる改革派神学(バルト、モルトマン)からより大きい影響を受けた、と言う興味深い経歴の持ち主な訳ですね。
自派の神学的伝統にガチガチに縛られて他派の神学的伝統など一顧だにしない・・・何ていう態度よりはよっぽどおおらかでいいと思いますが、指導的な役割を果たしたであろうK先生の個人的な影響の故、となっていなかっただろうか。
果たして自派の神学的伝統とちゃんとした折り合いをつけた上での改革派神学の吸収だったのだろうか。

ま、でも、その後、神学校でウェスレーが語られなくなり、バルトやモルトマンの神学から、どちらかというと神の一方的な恩寵が中心に語られ、決心を問う傾向は大きく後退するようになったし、聖書信仰ではなく、批評学的な立場に立つ神学によって立つようになってきました。
との述懐にあるように、(タカ牧師も自派のことを超えて他の群れをとやかく言える立場にないのですが)いわゆる「つまみぐい」で神学的伝統が断絶したり、捩れたり、未消化のまま時に相対立する要素を内包したままになっている現状があるのではないでしょうか。
これは特に特定の教派の問題ではなく、自派の殻を破って他の神学的要素を積極的に取り込む、いい意味では懐の深い教団に表れやすい問題ではないかと思うのです。

K先生の引退なされた(?)後はどうなったのでしょう。K先生の個人の神学的遺産のままで終わり、教団のDNAとして受け継がれたのでしょうか。

その辺りの継承はなかなか難しいことではないかと思います。

さて大分脱線してしまったかもしれませんが、「福音の再発見」が自分の教団の神学的由来・その後の変化などを省みるきっかけになったとしたら、それもまた由ではないかと思います。

ナザレン教団のJEA加盟に関して取った態度など、実はもっと教えていただきたいところですが、余り風呂敷を広げてしまうと読者も混乱するでしょうからやめておきましょう。(福音派の聖書主義と批評的聖書学への態度が非加盟の理由なのかな、と推理しますが・・・。)

宗教改革のいちばんの貢献は(ルーテル派、改革派、アナバプテスト派、それぞれに)、福音の重心を人間の応答と個人的責任へと移動させたこと、そしてその責任を強調するような方向に向かって福音を発展させたことだった。(97頁)
と書いてあるんですけど、これが全く理解に苦しみます。
教理史の専門家はこれにどう答えるんでしょうね。
ルターが福音の重心を人間の応答と個人的責任へ移動させた?
そうなんですか???
宗教改革そのものというよりも宗教改革の流れを汲む中での発展として、福音が個人主義化してしまったとは思うんですが…。
久 保木先生は「個人の発見」と言う宗教改革の正の遺産(とマクナイトも多くのプロテスタント近代の視点に立つ者たちが評価する)と、近代啓蒙主義の鬼子とし て現代社会の病巣の一つの原因となった「(行過ぎた)個人主義」と言う負の遺産の問題とを混乱させているように思われます。

カトリック教会(宗教改革後のプロテスタント国民教会でも問題として継続しましたが)では教会と社会共同体は同心円の関係にあり、その地域共同体に生まれることは即(カトリック)教会の一員となることを意味していました。
そうすると自覚的信仰と言う観点からは「ノミナル(名前だけ)キリスト者」が大量発生しているわけです。
「個人の発見」は、その同心円の宗教・政治・社会共同体に包摂されていた間は、「個人」として析出される機会を得なかったわけです。
ルターは「95か条の提題」などと言う冒険をやったおかげで、教会の権威を一手に引き受けた教皇に反抗すると言うどえらい目に遭わされてしまったわけです。
彼が自己の良心に照らして自説を撤回しなかった時、(有名な)

"I cannot and will not recant anything, for to go against conscience is neither right nor safe. Here I stand, I can do no other, so help me God. Amen."
ここに神と人間の間に何者の人的権威を関与させない「個人の良心・尊厳」が確立した、と後代の(特にドイツの国民的)歴史家は見るわけであり、確かに「個人の発見」と言う歴史的モメントが見られるわけです。

(あーなんて長たらしい文章になってきたんだ。きのうあれほど○○さんの文章は長い、などと言っておきながら・・・。)

と言うわけでいい加減着陸せねばならんのではしょりますが、「ノミナルなキリスト者たち」に自覚的回心をして社会と一繋がりの同心円的教会とは区別された(その後は任意に加盟することになる)『教会』が目指されるようになったわけです。

ウェスレーのメソジスト運動も(ノミナルな)英国国教会の中に回心したキリスト者たちが核となって教会改革をすることを目指していたと思います。

久保木先生の指摘した「福音が個人主義化してしまった」のは、近代啓蒙主義の影響下で政治と宗教が分離され、宗教が個人的なこと(privatized religion)として(世俗化していく)プロセスで顕在化した現象ではないかと思います。

でもご指摘の通り教会史における個人の救いに重心を移すパラダイム・シフトの叙述は簡略化された素描であり、教会史的な丁寧なものではありませんので、ご不満を持たれたとしても不思議ではありません。
確かにマクナイトの論点を明確にするだけの叙述に圧縮されていることはそうなのです。(でもこのような性格の本に教会史の教科書のようなものを期待されてもそれはちと難しいと思いますが・・・。まっ議論のための圧縮と見てあげてください。)

まっ多少なりともインターアクトしたつもりですが、久保木先生が関心持たれた点をすべて網羅することはとてもとても出来ません。
幾つか絡んだと思っていただけたらそれで勘弁してください。

(こんなブログ記事書くの初めてだと思います。まるで往復書簡みたい・・・。)

それでは、久保木先生におかれましては、ますますその若さと才気煥発を用いて日本の教会を啓発し続けなされるよう、御ブログの発展を心よりお祈りいたします。

Originally Posted on 2013 Jun 25 by タカ牧師

CLCBooks お茶の水店で、インストアトークライブ同時中継

 来る2013年6月23日(日曜日) 午後2時ごろから、CLCBooksお茶の水店様の特設コーナーで、スコット・マクナイト著「福音の再発見」(キリスト新聞社刊)の発売記念イベント インストア・トークライブを開催いたします。

Poorな技術力でするので、画像は荒いし始めてやるので、間違い、事故等が起きないとも限りませんが、実施いたしますので、ご覧頂ければ幸甚でございます。

有線が使えそうにないので、画像はかなり粗いものとなりますが、よろしければお付き合いのほどを。


公開用の一応このアドレスになりそうです。(変更があれば、このサイトでご連絡いたします。)

よろしければどうぞ。

http://www.ustream.tv/channel/king-jesus-gospel-japan

Originally Posted on 2013 Jun 21 by ミーちゃんはーちゃん

第2刷 刊行決定でございます。m(_ _)m

 皆様、お待たせしております。

 特に、地方部の皆様、また、ネット書店経由で、お買い上げをご予定の皆様、お待たせしております。再刷 の作業に入りました。1ヶ月経つか経たないうちに、各地のキリスト教書店で、流通在庫切れ(今週の月曜日、お茶の水CLCで見てきましたが、お茶の水 CLC様には、流通在庫を確保しておられたらしく、在庫がございました。22日のインストア・トークショー用のイベント用にも、在庫を抱えていただいてい るようです。ありがとうございます。)

 実は、出版元のキリスト新聞社には、現在在庫がない状態。急ぎ、再刷の手配をいたしたのですが、微調整もあり、再刷決定が月曜日にずれ込んだ関係で、お待ちいただいております読者の皆様をはじめ、各地の書店関係者の皆様大変ご迷惑をおかけいたしております。

 すべて整いましたので、現在印刷を行っております。

 早ければ来週の水曜日、遅くとも、今月末には、キリスト新聞社様に1000部入荷する予定でございますので、今しばらくお待ちください。

  お待たせしております間、拙ブログ関係者全員が1押しの書籍、福音の再発見した結果、この地上でキリスト者としてどう創造的に生きるのか、ということにつ いての書籍、ポール・マーシャル著「わが故郷、天にあらず」をご推薦いたしく存じます。一度、手に取っていただき、ご高覧いただければ幸甚に存じます。

 これまでのご愛顧に心から感謝いたしますとともに、今後とも、引き続き、お引き立て、ご友人の皆様にもご紹介のほど、ず、ず、ずぃ~~とよろしくお願い、あ、も~~しあげます。

Originally Posted on 2013 Jun 19 by ミーちゃんはーちゃん

出版記念イベントのご案内

ミーはーちゃんでございます。

 あーとうとう、福音の再発見、出版されました。

まずは、お礼をば…

  皆様、お買い上げいただき、またご紹介いただき、心から御礼申し上げます。東京以外では、なかなかお手元に届かない、というお嘆きの声をお聞きいたしま す。これに関しては、こころから、お詫び申し上げます。楽天とか、Amazonとかでも、流通在庫が薄いために大変、ご迷惑をおかけしております。


流通が複雑のようで
 とはいえねぇ、これに関しては、既存流通経路に乗せている以上、致し方がない部分もございます。小説や新書の一般書の流通もいろいろ関係者にヒアリングしていると、結構複雑なんですが、キリスト教書は、もっと複雑。さらに、普通、こんなにキリスト教書売れないようです。

電書にできない理由もいろいろと・・・

  南の国のコメント王子wwのように、いっそ電書にしちまえ、という考えもないわけではなかったのですが、これは和書の場合だと何とかなっても、洋書の場合 は、オリジナルの本の版権をもっている会社との契約条項の関係で、かなり絶望的とならざるを得ないという諸事情がありまして・・・。

今しばらくのご猶予を
  Amazonでも流通にのりましたが、2013年6月3日現在 納入待ち、楽天Booksさんでも品切れ納入待ち、本屋タウンさんでも版元問合わせ中と、 皆様に大変ご迷惑をおかけいたしております。出版元のキリスト新聞社さんでも鋭意努力されておられるようですので、今しばらくご猶予をお願いいたし度。m(_ _)m


トークショーイベントのご案内
 ご猶予をお願いしておきながら、恐縮ではございますが、出版を記念して、翻訳者の方の来日が緊急決定したので、それに合わせて、この本が生まれた背景などの裏話などをゆるくお話しするトークショーをお茶の水のCLCさんで、開催いたします。

 ぜひお越しください。

  概要は、こんな感じ。

訳者来日で 緊急開催!
「つながる」とはこういうことだ!

それは、1冊の雑誌が新刊された時に始まった。
そして、一本のブログ記事がネット上に・・・。

Web3.0社会のキリスト教と
キリスト教書を考える

   福音発見            ――なぜ"救われた"人たちが教会を去ってしまうのか
   出版記念インストアトークライブ

ライブショー登場者   中村佐知さん(翻訳者)
   タカ牧師(本邦初の原著の紹介者)
   ミーはーちゃん (黒幕w)
   まっちゃん(出版社 担当代理)
とき 2013年6月23日(日) 14:00-16:00
ばしょ お茶の水クリスチャンセンター 2F 
    CLC Books
ひと ご関心のある方(入場無料)


ポスターはこちら。

Poster

Originally Posted on 2013 Jun 04 by ミーちゃんはーちゃん

福音の再発見、発売後の反応②

タカ牧師です。

聞くところによると「福音の再発見」初版は完売まもなくとのこと。
先ずは購入してくださった方々、御礼申し上げます。

購入予定の方はなるべくお早目の方がよろしいかもです。
老婆心ながら・・・。


なーんてこと書いてもタカ牧師はその辺のことについては又聞き程度のことしか知りませんので、確かなことは何も申し上げられません。お許しください。

では発売後の反応また紹介しましょう。

先ずブログ記事から。

①KGK(キリスト者学生会)関西地区主事、老松望さんのブログ「朝のうちにあなたの種をまけ」に、The King Jesus Gospelと本の原題で記事がアップされています。
この書は「福音」という言葉の理解にメスを入れるもの
自分の原体験や教会の常識を聖書に読み込むのではなく聖書そのものから、福音を捉え直すという精力的な内容だ
決して涼しい顔をして読めるものではなく
「そこまで言うか?」とヒヤヒヤすることもあるが
根気良く読み進めていくなら、必ず得るものがあるだろう
②日本ナザレン教団鹿児島教会、久保木聡牧師のブログ「久保木牧師のきらきら探訪」に以下のタイトルでなんと3本も速攻で書いてくださっています。
マクナイト著「福音の再発見」を読む1…背景の違い
マクナイト著「福音の再発見」を読む2…伝統的な神学、宗教改革に向き合う
マクナイト著「福音の再発見」を読む3…どう適用するか

久保木牧師は色々な角度からこの本の評価をしてくださっています。
(※なお久保木牧師が指摘されたポイントについて余裕がありましたら、この場で何か書いてみようと思っています。首を長くしてお待ちください。)

③オンライン、オフラインのコメントから(名前や出所は省略させて頂きます。)

スコット・マクナイトの「福音の再発見」を読んでいます。まだ、途中ですが、読みながら私の心にも指摘されている同じ疑問があったことに気がつきました。 また、福音は説明ではなく宣言だというのは、晴佐久神父の主張と同じでちょっとビックリしました。(^-^) いろいろ教えられています。

書き込みながら、下線を入れながらゆっくりですが読み進んでいます。
今まではっきりしなかった自分個人の救われ体験やその後の己の世界観、聖書観、歴史観が逸脱した状態ではなかったかな、と思い始めています。
2000年の、5000年の歴史の中の私を思いめぐらしております。
257pの解説が巻頭にあっても良かったかなという思いです。でも本を開いたらまず後ろから読めと聞いたことがあります、たしかにそうです。

マクナイトの「福音の再発見」読中。これ、すっごい面白い!そうそう!って感じ。先を読むのが楽しみすぎる。
といったところです。

ではまた「発売後の反応」がありましたらご紹介します。

Originally Posted on 2013 June 03 by タカ牧師

福音の再発見、発売後の反応①

タカ牧師です。

先週終了した「スコットさんってどんな人 インタヴュー編」には「いいね」を沢山頂きありがとうございました。

発売後10日が経ち、そろそろ反応がちらほらブログやFBで出始めているようです。


先ずありがたいことに教文館のイーショップ
の方では、ツイートが8件、「いいね」が55件、も頂いております。ありがとうございます。

またカトリックの
パウルスショップでも
ツイートが4件、「いいね」を3件、頂いております。
まあまあの売れ行きのようで応援団の一員としてはほっとしたりして・・・。

個人的にも知人の方々に買っていただいておりますが、10冊を越える数が出ておりまして、買っていただいた(予約注文中も含む)方々には感謝申し上げます。

ブログで親しくさせて頂いている「
のらくら者の日記」さんや、巨大クリスチャン・ブログ「命と性の日記」さんには紹介記事を掲載して頂き、広くこの本を知らしめて頂いて感謝です。

「のらくら者の日記」ブログでも引用されておりましたが、大変な読書家である、百姓とんちゃんさんの「どこかに泉が湧くように」では「
新刊書紹介」として本格的な紹介記事を書いて頂き、本書が提起している問題を鋭く指摘してくださり感謝です。

さらに
「どこかに泉が湧くように」の最新記事でも、ジョン・F・マッカーサーJr.『イエスの福音』を紹介しながら、テーマ的に重なるところの多い本書と比較して、
ただ私は、『イエスの福音』よりも、スコット・マクナイト『福音の発見』をおすすめします。今私たちに求められるのは、「イエスの福音」をもっとさらに包括的に見る視点だからです。
とご推薦いただき感謝です。

ではそんなところで一筆感謝のご報告をば。
2013/05/27


Originally Posted on 2013 May 27 by タカ牧師

スコットさんてどんな人⑥ インタヴュー(完)

タカ牧師です。

しばらく更新が滞っている間に「福音の発見」は予定通り発売されました。パチパチパチ。

では早速インタヴューの残りです。

さてマクナイト教授、これまでの質問で読者の方々も幾らかマクナイト教授と日本との関係について知ることができ、「福音の再発見」をより身近に感じられるようになったことと思います。
ではここで思い切って本の内容について、私(タカ牧師)が少々案じていることについてお聞きしたいと思います。
おや、いよいよインタヴューの核心部分かな。どうぞ何でも聞いてください。できるだけお答えしますよ。
マクナイト教授は本の中で、福音派と呼ばれる人たちは実際には「救い派」である、と指摘していますよね。福音派の人たちが提示する「福音」は、実際には新約聖書の言う福音ではなく、むしろ「救い(の計画)」なんだと言うご指摘です。
そ うだね、僕がこの本で主張しているのは、「“救いの”福音」とは人々が罪を認め、救いの決心に至らせるために、「救いについての教理」の諸要素を、論理を 整え順序よく配置したものであるのに、それを新約聖書が言う意味での福音だと(間違って)思い込んでいる、と言うことなんだ。
そ うですよね。だとすると私たち日本の福音派と言われるキリスト者たちも、基本的にはそのような「“救いの”福音」を聞いて「救われた」として来たわけです から、マクナイト教授の本を読むと「いや、それは聖書が言う意味での福音ではない。」と言うことになり、読者たちは「私は福音を間違って聞いていたのだろ うか。すると私はもしかしたらちゃんと救われていないのではなかろうか。」と戸惑いや動揺を覚えるのではないか、と言うことなんです。
マクナイト教授はそのことについてどう思われますか。

一つ大事なことを先ず確認しておこう。私は「“救いの”福音」の教理的な部分、その中核的部分については正しいと思っている。
しかしもし福音はこれだけだと限定するならば、それは新約聖書の福音の見方から外れてしまう、ということなんだ。
と言うことは「“救いの”福音」を聞いて「救われた」キリスト者は自分の救いを疑う必要はないと言うことでしょうか。問題はそのような「救いの確信」を如何に堅固に聖書的基盤に据え付けるか、と言うことでしょうか。
そうだね。だから私は日本の読者に望むのは、ちょうど使徒の働きに出てくるべレア人(注:使徒の働き17章11節)のように、「一体聖書は何と言っているか」と聖書自体に直接問いを向けて欲しいんだ。
マクナイトは聖書では福音をこうだと言っているが、果たしてその通りかどうか一つ聖書に当たって直に調べてみよう・・・とね。
「福音の再発見」を読んで戸惑いを覚えたり、疑問を感じたりしたら、それで終わりにしないで聖書に当たってマクナイト教授の書いていることがその通りかどうか私たち自身が調べてみなくてはならない、と言うことですね。
そ の通りだね。その時こう言う順番で調べて行って欲しい。先ずコリント第一の手紙の15章。それから使徒の働きに出てくる説教。それから福音書自体が福音な のかどうかを問うてみて欲しい。そしてテモテへの手紙第二の2章8節を読んで、そこに言われていることが福音かどうか問うて欲しい。
そうですか。やはりべレアの人たちのように熱心に聖書を調べることが大事なんですね。
そうだよ。だから日本のキリスト者たちが私の本を読み、さらに新約聖書へと向かっていただけたら、それで私の役割は果たせたことになる。
マクナイト教授、今回はインタヴューのために時間を取ってくださりありがとうございました。日本の読者に代わって御礼申し上げます。

(※以上でインタヴュー記事は終了です。)


Originally Posted on 2013 May 19 by タカ牧師

「福音の再発見」印刷上がり

 タカ牧師です。

「スコットさんてどんな人」のインタヴュー編を続けていますが、今日はいよいよ
カウントダウン
の目標日になりました。

現在の状況をお知らせします。

印刷上がりまできました。

(刷り上った本がキリスト新聞社に届いている画像はこちらでご確認ください。)

と言うわけで近日中に店頭に並んでいく予定です。

では期待してお待ちください。

Originally Posted on 2013 May 15 by タカ牧師

スコットさんてどんな人⑤ インタヴュー

「福音の再発見」出版まであと3日!
(今回はインタヴューの2回目。前回はコーヒーや日本食のことなど軽い話題から質問しました。今度はマクナイト教授と日本の関係について聞きます。)

マクナイト教授はおとなり韓国を含めて世界中あちこちの国々にいらしているようですが、日本はまだですよね。
日本についてはどんなイメージをお持ちですか。

そうだね、少し僕の生い立ちのことを話させて頂くけど、僕は海外伝道にとっても熱心な教会に育ったんだ。その教会は何人もの宣教師をサポートしていてね、その中に日本への宣教師もいたんだ。だからその宣教師が僕が日本を意識する最初のきっかけだったと言えるね。

そ うですか、私が最初にアメリカを意識できたのは小学校1年生の時、アメリカに旅行して帰ってきた先生がスライドでその旅行の様子を見せてくれたのですが、 とてつもなく遠い国に感じられて仕方なかったです。マクナイト教授にとって日本への宣教師一家を通して意識された日本はどんな存在だったのでしょうか。

僕の場合は日本をそんな遠い国として意識すると言うより、日本にいる宣教師家族のためにとにかく一生懸命に祈ることだったね。伝道活動が拡げられ、教会が建てられるように、教会の皆と祈った子供時代が懐かしいね。

そのお話を聞いて被宣教国である日本と、日本も含めて世界に宣教師を送り出す国アメリカと、育つ国によって「外国」を意識することがこんなにも違うのかと思わされました。
さて日本と言う国に対するイメージについて聞かせていただきましたが、具体的に「日本人」とはどんな関わりがおありでしたか。

そうだね印象に残っているのはノースパーク大学(注1)で教えていた時日本人の学生がいたよ。女子学生でね、とっても知的で、才能に恵まれていて、何よりしっかりした信仰を持っていた。彼女は母国に帰って日本の教会のために働くことを深く心に決めていた。
日本でキリスト者として生きることは、家族関係や社会との関係の問題があり、福音に忠実に生き抜くには大変困難な面があることを聞かされていた。だから、彼女のその覚悟を聞いて心にぐっと来るものがあったね。
だから僕の「キング・ジーザス・ゴスペル」が今回邦訳出版されることを聞いて大変光栄に思っているんだ。

(今回のインタヴュー質問はここまで。次回最後のインタヴューでは「福音の再発見」の内容について少し切り込んだ質問をします。)

注1:マクナイト教授は長らくノースパーク大学で教鞭を取っておられましたが(1994-2012年)、昨年からノーザン神学校(旧名ノーザン・バプテスト神学校)で教えておられます。

Originally Posted on 2013 May 13 by タカ牧師

スコットさんてどんな人④ インタヴュー

 「福音の再発見」出版まであと1週間!
追い込みに入っています。

発売予定日、5月15日は
順調ならということです。
もしかしたら多少の遅れがあるかもしれませんが、この応援サイトでは予定日を規準にカウントダウンしていきます。

今回は緊急事前インターヴューと言うことでお忙しい中ではありますが、著者のマクナイト教授にイーメールでインタヴューをさせていただきました。
マクナイト教授は頻繁に更新する
ジーザス・クリードというブログを抱えており、返事が来るには少し時間がかかるかなー、と思っていましたら、その日のうちに速攻でご返事くださいました。

もちろん英語でのやり取りですのでここでは翻訳して紹介するわけですが、ただそのまま翻訳するだけでは面白みにかけるかもしれないので、多少脚色がかかりますが、よりインタヴュー形式にしてお披露目させて頂きます。


始めまして、東京で小さな教会の牧師をしているKです。今日はよろしくお願いします。

こちらこそ。僕の本、キング・ジーザス・ゴスペルが日本語に訳されて出るんだって。大変光栄だ。こちらこそよろしく頼むよ。
はいそうなんです。もうこのプロジェクトに取り掛かって1年位になるのですが、発売予定日も5月15日に決まり、それで出版に合わせてこのインタヴューをしようと思い立ちました。今回はご協力ありがとうございます。

で、何から聞いてくれるのかな。遠慮なくどうぞ。と言ってもあまりプライベートなことは聞かないでよ。
えー!!! 実は予定していた質問は少しプライベート方面なのですがよろしいでしょうか。あのコーヒーのことです。マクナイト教授はかなりなコーヒー・ドリンカーだとどっかで読んだ気がするのですが、そうなんですか。
おや良く知ってるね。そう僕はかなりなコーヒー・ドリンカーだよ。エスプレッソもラテも好きだし、それからシカゴにはインテリジェンツィアというコーヒー(チェーン)店があるんだけど、ここにもしょっちゅう行くね。
では今度は食べ物の話題に移りたいのですが。マクナイト教授は日本食は何かご存知ですか。例えばスシなど食べたことおありですか。

あースシね、時々行くよ。そんなにしょっちゅうと言うわけじゃないけど。日本食じゃないけど、僕は韓国に行ったことがあるんだ。それでなんか韓国料理が好きになってね。それからこっちにある韓国料理店や日本料理店に行くようになったんだ。
そーですか。それを聞いて嬉しく思います。ところでご自宅で日本料理を作る・・・何てことはありますか。
さすがにそれはまだないね。誰か日本人の友達でも日本料理のレシピをくれたら作るかもしれないけどね。誰か教えてくれる。
(この部分の会話はここまで。実は翻訳者のはちこさんがお料理が得意なので、多分はちこさん直伝のレシピがマクナイト教授の元に届けられることになるでしょう。マクナイト教授、しばらくお待ちください。)

※インタヴューは次回に続く。Stay tuned.

Originally Posted on 2013 May 09 by タカ牧師

表紙ができました。

 皆様、おまっと様でした。スコット・マクナイト著、中村佐知訳「福音の再発見」表紙画像が来ました。


 

では、関西聖書神学校舎監先生であられる鎌野直人先生のご紹介文を。


 「福音」が語られ、「救われた」人々が起こされているはずなのに、教会のいのちが衰弱していると感じられる現代。個人の救いと教会としての歩みの間のギャップ、それを埋めたくても埋められないジレンマに直面している多くの教会。マクナイト氏は、伝えるべき「福音」が矮小化されているのがその原因ではないか、と問題提起しています。そして、イエスが体現し、使徒たちが宣べ伝え、福音書が物語っている「王」であるイエスの福音、それもイスラエルから始まる聖書の物語の中に深く根ざした福音を再発見することこそがいのち溢れる教会への道筋であると訴えています。『ケープタウン決意表明』にもつながる宣教的な福音が綴られている本書を、是非、ご一読ください。

  鎌野直人 (関西聖書神学校学監・日本ローザンヌ委員会委員)

関西聖書神学校舎監先生であられる鎌野直人先生の推薦文読んだ、あなた。

あ・な・た。 そう、そこのあなたです。もう欲しくなるっているのではないですか。ほら、もう。

2000プラス消費税、と大変お買い得価格となるようです。

 しかし、まだ、本屋さんには並んでいません。もう少しお待ちくださいね。2013年5月20日ごろには、書店に並びそうな模様ですので(あくまで、予定は予定)、その時までお待ちくだされ。

Originally Posted on 2013 May 07 by ミーちゃんはーちゃん

スコットさんてどんな人③

おはようございます、タカ牧師です。

GWも今日でおしまい。のんびり最後の休日を過ごしている人も多いかと思います。

いや、それとも明日からの仕事に気が回り始めてそわそわしている人もいるでしょうか。

仕事と休日、メリとハリ。(いやハリとメリ?どっちがどっちか分からないけど・・・。)

さてスコットさんの紹介が続いています。
スコットさんの著書最新作が「福音の再発見」なのですが、それ以前に出している本で
The Jesus CreedThe Blue Parakeetと言うのがあります。

前者はスコットさんのブログ・タイトルにもなっています。
クリードは「信条」のことで、ジーザス・クリードは「イエスの(基本的な)教え/戒め」くらいに思っていました。
(タカ牧師はどちらもまだ読んだことがありません。)

ブルー・パラキート(青インコ)に至っては、題名の意味が???でした。
このビデオでようやくこれら二つの本の意図しているところが分かったような気がします。

スコットさんは著名な新約聖書学者ですが、彼は新約聖書を知ることだけでなく、如何にそれを生きるか、と言うことに深い関心のある人だと分かりました。

このオリベット・ナザレン大学で行なわれた講演では、ブルー・パラキートの話から入ります。

ある時スコットさんが面白くもない本を読んでいる時、庭の藪に青い鳥が見えました。どんな鳥だろう色々見ていたのですが、やがてその鳥の周りに雀が集まってきました。
最初のうち雀はこの闖入者を警戒して、青インコが何か動きをする度にぱっと飛び去りました。

しかしやがて雀たちはこのよそ者の青インコを仲間と認めたようです。
この出来事をスコットさんは、イエスとイエスの周りに集まったアウトサイダーたちを読み解く喩えに用いているようです。

イエスの生き方は当時の立派な宗教家であるパリサイ人とは違っていました。
パリサイ人は律法を守る人しか仲間と認めてくれなかったけれども、イエスは娼婦・取税人たちを歓迎しました。
パリサイ人は「悔い改め」を仲間になる条件としましたが、イエスは最初から仲間に迎え入れたことによって彼らの人生が改まりました。

現代のクリスチャンは「よそ者」をどう受け止めるのか・・・と言う挑戦がブルー・パラキートのエピソードに込められているのですね。

ジーザス・クリードは旧約聖書の律法を二つの戒めに要約したイエスの教えを現しています。(マタイ22章34-40節)
神への愛と隣人愛。

これをユダヤ人たちのように日々何回も唱え、また実践することの大切さをスコットさんは深く考えています。

その影響を受けた飛び切り優秀な学生が卒業後の進路を相談しにスコットさんの元に来たそうです。
進路①:デューク大学神学部から奨学金をもらって、スタンレー・ハウアーワス教授の元、修士と博士を取得する。
進路②:この学生が始めたホームレスへの奉仕を継続するためこの地に残る。

スコットさんは、「貧しい者たちはいつもあなたと共にいる。学業を終えてからでも遅くない。進学せよ。」と勧めたそうですが、この学生は結局②を選び、その後も首都ワシントンでジム・ウォーリス率いるソージャナース(キリスト教精神に基づく社会正義運動)へと進んで行ったそうです。

「福音の再発見」が問題にしている「個人的救いに特化したキリスト教」の問題は、ミーイズムに捕らわれ、イエスが教えた愛の実践に踏み出さない、貧弱な「福音」だ・・・と言うのがこの本が書かれた背景にあるようです。

ではまた次回。


Originally Posted on 2013 May 06 by タカ牧師

スコットさんてどんな人②

 「福音の再発見」出版まであと12日!


タカ牧師です。

著者、スコット・マクナイトってどんな人か紹介して行こう・・・と言うわけで、前回は彼に影響を与えた4冊の本を紹介している動画を埋め込もうとしたのですが上手く行きませんでした。

と言うことはこの「著者紹介シリーズ」はテキスト中心になるようですね。

(著者スコット・マクナイトはマクナイト教授とでも呼ぶべきかもしれないが、彼はアメリカで長い間大学の先生をしていて、スコットとファースト・ネームで呼ばれるのが普通だったようなので、「スコットさん」呼んでいます。)

生い立ちを紹介しようとウィキペディアを参照してみたのですが、生年月日等幼少のことは殆んど紹介されていません。
イリノイ州で生まれ、イリノイ州フリーポートで育ったとあるだけです。
少し情報が豊かになるのは「大学生活」から。

グランド・ラピッズ・バプテスト大学(現在はコーナーストーン大学と改名しています。)を卒業しているのですが、その時影響を受けた二人の先生について《ジーザス・クリード》で記事を書いています。

大学時代の先生

お一人目の先生の名は、ジョー・クロフォードさん。
大学最初の日に出会った先生が、スコットさんのメンターとなり、将来聖書の教師になろうと思わせた方だそうです。

he taught me to think for myself, to read the Bible on my own, to use concordances, to read scholarship, and to buy books.
自分の頭で考える・・・ことを教えてくれる先生は本当いい先生だと思います。

お二人目の先生は、ロン・メイヤース博士。
哲学の先生だったので思わず哲学専攻に進もうかと思ったそうです。
He had the knack of making you think you had a good question even if he had heard it many times before and even if it was “stuck on stupid."
この先生も教え上手ですね。生徒が大した事ない質問しても、「いい質問だ」と勇気付けてくれるわけですから。
向学心アップ間違いなしですね。

この他、根本主義バプテストとして育ったこと(本著の『1971』でその片鱗がうかがわれます。)、「明日にも携挙があるかもしれない」雰囲気の中で育ったこと、バスケットボール選手だったこと、などが紹介されています。



タカ牧師が一番興味持ったのは、スコットさんが大学近くの本屋(多分アードマンズかな?)新本でガタガタになったキリスト教書を90%オフになっているのを見つけて買うこと、というくだり。

いやこれは一種の狩猟本能に近いものがありますね。
タカ牧師も北加にいた時、中古書店を徘徊しながら「掘り出し物」をゲットしようと躍起になっていました。

と言うわけで、また次回。

Originally Posted on 2013 May 03 by タカ牧師


いよいよ5月です


本当に久し振りですね、タカ牧師です。
最後の投稿は何時だっただろう・・・。
スコット・マクナイト「福音の再発見」が出版される5月となりました。
いよいよカウントダウンです。

5月15日が出版開始予定日と聞いていますが、それまで著者スコット・マクナイトを色々な側面から紹介してみたいと思います。






余りJUGEMは得意でないので、動画を組み込むのにシンプル・エディターを使わなければならないと言う制約があります。うまく行くかな・・・。

この動画にあるように、スコット・マクナイトに影響を与えた本が4冊あるそうです。

一冊目は、ディートリッヒ・ボンヘッファー『キリストに従う
大学時代に読んだそうですが、キリスト者として生きることは「キリストに従う行為」であることを衝撃を持って学んだのだそうです。

二冊目は、ヨアヒム・エレミアス『新約聖書神学Ⅰ:イエスの宣教
これは博士課程にいた時読んだそうですが、マクナイトの専門である「史的イエスの探求」に進んで行くのに大きな影響があったそうです。

三冊目は、C・S・ルイス『キリスト教の精髄
マクナイトはこの本から「いかに信徒に向かって書くか」を学んでいるそうです。そのため日常的に、何か書く時はこの本をとって数ページ読んでから書くそうです。

四冊目は、ジョゼフ・エプスタインの随想集。
ウィット、皮肉に溢れた文章がお気に入りとのことです。



ではまた次回。

教文館さんで予約受付のご案内

 教文館さんで、スコット・マクナイトの福音の再発見の予約受付が始まったようです。

いよいよです。お楽しみに。

http://www.kyobunkwan.co.jp/xbook/archives/68125

Originally Posted on 2013 May 04 byミーちゃんはーちゃん

ダラス・ウィラード南カリフォルニア大学教授による推薦文

 ダラス・ウィラード 南カリフォルニア大学 教授による本書の推薦文のスニーク・プレビューでおじゃる。ごろうじてたも~。 

 まず、簡単にダラス・ウィラード先生によるご紹介をごく簡単にまとめておくと、

  • 現代のキリスト教会内での聖書理解の混乱と混乱したままの聖書理解が整理されずに伝えられていること、
  • その結果として、本来キリストに従うものであるはずのキリスト者がキリストと共に生きるものとしての生き方(弟子となること)ができていないこと
  • 初期のキリスト者が伝えようとしたメッセージは何か、ということを聖書をもとに検証することの重要性
  • より年長のキリスト者のことばに従うのではなく、キリストのことばそのものにしたがって生きることは現代で可能であること
  • マクナイトが提示した可能性は、宗教的サービスの消費者から神と共に生きるものとしての人生への変容が現代でも可能であること
  • 救いと解放をもたらす神の力をとりもどすべきこと

というかたちにまとめることができるでしょう。

 では、どうぞ。


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 今日、「目に見える教会」を困らせている多くの問題の根底にあるものは、実は単純なことだ。それは、教会で語られているメッセージである。

 
  第一に、そこで語られているメッセージは一つではなく、三~四種類の、互いに対立していたり重なり合っていたりするメッセージがあることに注目してほし い。その有様は、外部の傍観者だけでなく、敬虔な教会員にとっても混乱を招くものである。そのように混乱した状況では、生涯をかけて全人格的にキリストに 従おうとしている人々や、この現代世界で真摯に、また効果的にキリストに仕えようとしている教会のグループが、どうやって首尾一貫した確固たる応答をする ことができるだろうか。

 第二に、その混乱のために、通常教会で語られるメッセージを聴いても、聴く者たちがイエス・キリストの弟子と なる人生に入っていくことができない。結果として、個人の変容も社会の変容も、聖書記者にとっては当然起こるものとして期待されていたはずでありながら、 また、「道」であるお方に従って歩んできた「偉人」たちのうちには明らかに存在していたものでありながら、それが現実のものとなることがほとんどない。こ れを実現できるのは、理にかなった弟子としての生活だけである。それなしには、私たちが持っているものは、キリストの弟子のいない巨大な名ばかりの「キリ スト教」に過ぎない。

  そこで次のような問いが生まれる。「人々が、キリストやその使徒たちに従うようになるほどに古代世界を揺るがしたメッセージとは、一体何だったのか?」そ して、その後多くの人々を、明らかに「この世に属すものではない」人生へと引っ張り込み、さらには少なからずの人々をキリストの力と品性へと形づくること さえしたメッセージとは、一体何だったのか? 今日それを見極め、教え、それに従って生きることは可能だろうか?

  答えは「可能だ!」である。私たちは今日でも、イエスが教えたことを、イエスが教えた方法で教えることができるし、それこそまさに、イエスが、いつの時代 も行なうようにと弟子たちに委任したことだった。その教えと、弟子たちの中におけるイエスの存在によって、弟子たちは委ねられた任務を極めて効果的に遂行 することができたのだ。その結果、今やイエスが教えた人生をこの地上で生きるようになった人たちは、使徒パウロが言ったように、「いのちのことばをしっか り握って、彼らの間で世の光として輝く」(ピリピ2:16)のである。今日、この世にキリストを証ししようと思うなら、イエスが教えた方法を実践する以外 に道はないだろう。

 スコット・マクナイトは本書で、極めて力強く明確に、聖書の唯一の福音、すなわち王であり救い主であるイエスの唯一の福音を提示する。彼はそれを、深遠な聖書理解と、歴史への洞察に基づきながら行う。また、今日語られている福音が、宗教的商品とサービスの消費者 ばかりを生み出し、イエスの弟子を 生むことがないのは、福音理解に誤解があるからだという洞察にも基づいている。これらについて語る中で、スコットは今日イエスの福音の力のいちばんの障害 となっているものを取り扱う。すなわち、イエスの弟子となることや霊的形成とまったく結びつかない「救い」と「恵み」についての考えである。その「恵み」 と「救い」の考えは、言わば、人を死に向けては整えるが、今、恵みと復活のいのちの力の中で生きることについては何もしてくれない。

  王なるイエスと今ある御国の福音は、まさに「救いと解放をもたらす神の力」である。それを証明するためには、今あるいのちに関わる良い知らせを宣べ伝え、 教え、明示すればよい。それはあなたとすべての人のためのものであり、イエスとともに天の御国のうちにあるいのちだ。後のいのちだけでなく、あなたの全生 涯なのである。福音書を学び、イエスがどのようにそれを宣べ伝えたのかを学ぼう。そしてイエスが行ったように、あなたもそれを行おう。それを行なうために は、プログラムも、予算も、特別な資格も必要ない。とにかく聖書的な形でそれを理解し、実行に移せばよい。スコット・マクナイトはそのための鍵を提供して くれる。

ダラス・ウィラード 
南カリフォルニア大学哲学部教授 

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 さて、聖書をフレッシュな視点から読む視点があるよ、そのきっかけをくれるかもよ、ということのようなので、皆さま、今しばらくお待ちくだされ度候。

 なお、心の刷新を求めて、のお買い上げはぜひ、あめんどうブックス(出版社直販サイト)で。

Originally Posted on 2013 Apr 19 by ミーちゃんはーちゃん

NTライト先生による福音の再発見の推薦文

N.T. ライト先生による「福音の発見」の推薦文のスニークプレビューでござる。皆様、ずずずいーっとご覧うじて頂ければ幸甚。


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  純 粋なキリスト教の偉大な特質に、それぞれの世代が、キリスト教信仰について新たにじっくり考えなければならない、という点がある。神は一人ひとりのキリス ト者が、理解においても、信頼することにおいても、成長してほしいと願っておられる。そして、まさにその理由によって(とキリスト者は思うのだが)、キリ スト教信仰というものは、一つの世代がすべてを解決し、まとめ上げ、次の世代の人々は何もしないで済むというようにはなってこなかったのだ。莫大な遺産を 相続した若者が怠け者になるのと同じで、偉大な信仰の遺産を遺されたとしたら、次の世代は自分では何もしなくなるだろう。信仰とは、本を開いて調べればい いだけ、あるいは、お気に入りの牧師のやり方を思い出せばいいだけ、のものになってしまう。そこには、人格の入る余地がない。全人格的な成熟の入る余地が ない。ましてや、キリスト者の成熟など問題外だ。
 キ リスト教の中には、この類いの資本を絶えず蓄積しようとする部分もある。しかし、それは無理な話なのである。キリスト教信仰とは、色とりどりの万華鏡のよ うであるが、私たちのほとんどは色盲である。それは多次元的であるが、私たちのほとんどは、頭の中で一度にせいぜい二つの次元までしか考えられない。それ は交響曲のようであるが、私たちに口ずさめるのは、そのうちの一つの旋律だけである。 だから、誰かがやってきて、これまで私たちが気づいていなかった他の色や模様を私たちに指し示したからといって、驚くことはない。誰かがやってきて、私た ちが見落としていた三番目、四番目、さらには五番目の次元のあらましを見せてくれたらからといって、怯えることはない。自分がすでに知っているつもりだっ た旋律に、音楽家が新しいハーモニーを加えるなら、むしろそれを歓迎すべきであろう。
  つまり、スコット・マクナイトの新刊である本書のような本を、私たちは歓迎すべきだということだ。スコットは、アメリカでは(そして、ある程度、世界的に も)有数の新約聖書学者として多くの人たちに知られている。彼は新約聖書のテキストを隅々まで知り尽くしており、その意味と解釈をじっくりと考え、取り組 んできた。それだけでなく、スコットは祈りの人でもあり、教会に仕え、福音を宣べ伝え、人々の霊的成長を助けることに献身している。神学校の教授陣には、 自分の過去を棚に上げ、表面的な信仰から抜け出せないでいる暗愚で無学な輩を冷笑し、ばかにするかのような態度を取る人たちもいるが、スコットはそうでは ない。彼が伝統的な理解に疑問を呈するのは、聖書とキリスト教の伝統を深く学んできた者として、われわれが福音の物語の半分しか語ってこなかったこと、そ して全体像をうまく捉(とら)え切れていないことを指摘できる立場にいるからである。
  スコットが提案する革命は広範囲に及ぶものだ。あまりに広範囲に及ぶため、彼の同僚にしても、そして私自身にしても、その提案の細部すべてに渡ってただち に同意できるかどうかは分からない。私たちは皆、物事を少しずつ違う表現で説明したり、異なる点を強調したり、別の角度からスポットライトを当てたりする ものだろう。それは当然のことである。細かい差異はともかくとして、ここで提示されている大きなテーマは、ほかの人たちも語ってきたことと共通する。すな わち、長い間「福音派(evangelical)」と呼ばれてきた運動は、実は「救い派(soterian)」と呼ぶほうがふさわしいものであったということだ。つまり、これまでずっと「福音」について語ってきたつもりだったが、実際は「救い」にのみ集中していたのである。
  「しかし、福音とは救いのことではないのか?」読者はそう問うかもしれない。それに対してスコットは、そうだとも言えるし、違うとも言えると答える。初期のキリスト者たちは、そもそもなぜ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を「諸福音(the gospels)」と複数形ではなく、「福音(the gospel)」 と単数形で呼んだのか?(ひとつの福音を、四人の話者がそれぞれの角度から語ったものと初期のキリスト者は見なしていた。)それに対するスコットの答えは こうだ(そして私も、彼の考えが正しいと確信している)。「『福音』とは、イスラエルの長い物語のクライマックスとして語られた、ナザレのイエスの物語で あり、それはまた、唯一まことの神がいかにしてこの世を救済するのかという物語でもある」。福音書と使徒行伝は、これまで長らく「福音」の裏話のように見 なされていたが、それが突如として表舞台にやってきた。皆さんが本書を読む前にあまり種明かしをして、楽しみを奪ってはいけないので、これだけを言ってお こう。本書では、数多くの新しい色と模様、数多くの新しい次元、いくつかの新しい旋律(少なくとも、ほとんどの人にとっては新しいだろう)、そして新しく 豊かなハーモニーが提示されているのである。
   スコット・マクナイトは、現代キリスト教、特にアメリカにおける現代キリスト教の弱点を指摘する。多くの人にとって、「福音」とはイエスの死とその意味 するもの、そしてそれを受け入れるときの人々の祈りを指すものに縮小されてしまった。それらは確かに重要なことである。ヘリコプターのプロペラがどのよう に回るかが重要なのと同じだ。プロペラがなければヘリコプターは地面から飛べない。しかし、プロペラはヘリコプターの一部分に過ぎず、プロペラだけがヘリ コプターを構成するのではないように、贖罪論という小さな理論と信仰だけが、「福音」を構成するのではないのだ。
  ジョン・ストットが、「ある人たちは『極限まで簡略化した最小限の福音』について論じている」と言うのを、ずっと前に聞いたことがある。彼はそのような考 えを退け、こう言った。「極限まで簡略化した最小限の福音など、誰が欲するものかね? 私が欲しいのは、十全で聖書的な福音だ」。読者の皆さん、これこ そ、スコット・マクナイトが本書で提示するものである。先にも述べたように、彼の論説に同意できない部分も多少はあるかもしれない。しかし私たちはあまり にも長い間、全く聖書的だとはとても言えない福音を後生大事に握りしめ、それを土台に教会生活や慣習の大半を建て上げてきたのだ。今こそ早急に、本当に聖 書的な「福音」のヴィジョンを捉え直す必要がある。新世代のキリスト者は、新しい目線で物事を考え、1世紀の福音の大きな世界を振り返り、それから同じよ うに大きな21世紀の福音の世界が持つ機会に目を向ける、という責任を担うべく成長しなければならない。本書はそのために神が用いる一つの方法なのかもしれない。
N.T.ライト
セントアンドリュース大学教授
(新約聖書学及び初期キリスト教学、元ダーラム主教)


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翻訳者 中村佐知さんによる翻訳でお送りしました。当初、4月末までに刊行予定でしたが、諸般の事情で、5月中に刊行できる見込みです。いましばらくお待ちください。




NTライト先生による福音の再発見の推薦文

N.T. ライト先生による「福音の発見」の推薦文のスニークプレビューでござる。皆様、ずずずいーっとご覧うじて頂ければ幸甚。


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  純 粋なキリスト教の偉大な特質に、それぞれの世代が、キリスト教信仰について新たにじっくり考えなければならない、という点がある。神は一人ひとりのキリス ト者が、理解においても、信頼することにおいても、成長してほしいと願っておられる。そして、まさにその理由によって(とキリスト者は思うのだが)、キリ スト教信仰というものは、一つの世代がすべてを解決し、まとめ上げ、次の世代の人々は何もしないで済むというようにはなってこなかったのだ。莫大な遺産を 相続した若者が怠け者になるのと同じで、偉大な信仰の遺産を遺されたとしたら、次の世代は自分では何もしなくなるだろう。信仰とは、本を開いて調べればい いだけ、あるいは、お気に入りの牧師のやり方を思い出せばいいだけ、のものになってしまう。そこには、人格の入る余地がない。全人格的な成熟の入る余地が ない。ましてや、キリスト者の成熟など問題外だ。
 キ リスト教の中には、この類いの資本を絶えず蓄積しようとする部分もある。しかし、それは無理な話なのである。キリスト教信仰とは、色とりどりの万華鏡のよ うであるが、私たちのほとんどは色盲である。それは多次元的であるが、私たちのほとんどは、頭の中で一度にせいぜい二つの次元までしか考えられない。それ は交響曲のようであるが、私たちに口ずさめるのは、そのうちの一つの旋律だけである。 だから、誰かがやってきて、これまで私たちが気づいていなかった他の色や模様を私たちに指し示したからといって、驚くことはない。誰かがやってきて、私た ちが見落としていた三番目、四番目、さらには五番目の次元のあらましを見せてくれたらからといって、怯えることはない。自分がすでに知っているつもりだっ た旋律に、音楽家が新しいハーモニーを加えるなら、むしろそれを歓迎すべきであろう。
  つまり、スコット・マクナイトの新刊である本書のような本を、私たちは歓迎すべきだということだ。スコットは、アメリカでは(そして、ある程度、世界的に も)有数の新約聖書学者として多くの人たちに知られている。彼は新約聖書のテキストを隅々まで知り尽くしており、その意味と解釈をじっくりと考え、取り組 んできた。それだけでなく、スコットは祈りの人でもあり、教会に仕え、福音を宣べ伝え、人々の霊的成長を助けることに献身している。神学校の教授陣には、 自分の過去を棚に上げ、表面的な信仰から抜け出せないでいる暗愚で無学な輩を冷笑し、ばかにするかのような態度を取る人たちもいるが、スコットはそうでは ない。彼が伝統的な理解に疑問を呈するのは、聖書とキリスト教の伝統を深く学んできた者として、われわれが福音の物語の半分しか語ってこなかったこと、そ して全体像をうまく捉(とら)え切れていないことを指摘できる立場にいるからである。
  スコットが提案する革命は広範囲に及ぶものだ。あまりに広範囲に及ぶため、彼の同僚にしても、そして私自身にしても、その提案の細部すべてに渡ってただち に同意できるかどうかは分からない。私たちは皆、物事を少しずつ違う表現で説明したり、異なる点を強調したり、別の角度からスポットライトを当てたりする ものだろう。それは当然のことである。細かい差異はともかくとして、ここで提示されている大きなテーマは、ほかの人たちも語ってきたことと共通する。すな わち、長い間「福音派(evangelical)」と呼ばれてきた運動は、実は「救い派(soterian)」と呼ぶほうがふさわしいものであったということだ。つまり、これまでずっと「福音」について語ってきたつもりだったが、実際は「救い」にのみ集中していたのである。
  「しかし、福音とは救いのことではないのか?」読者はそう問うかもしれない。それに対してスコットは、そうだとも言えるし、違うとも言えると答える。初期のキリスト者たちは、そもそもなぜ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を「諸福音(the gospels)」と複数形ではなく、「福音(the gospel)」 と単数形で呼んだのか?(ひとつの福音を、四人の話者がそれぞれの角度から語ったものと初期のキリスト者は見なしていた。)それに対するスコットの答えは こうだ(そして私も、彼の考えが正しいと確信している)。「『福音』とは、イスラエルの長い物語のクライマックスとして語られた、ナザレのイエスの物語で あり、それはまた、唯一まことの神がいかにしてこの世を救済するのかという物語でもある」。福音書と使徒行伝は、これまで長らく「福音」の裏話のように見 なされていたが、それが突如として表舞台にやってきた。皆さんが本書を読む前にあまり種明かしをして、楽しみを奪ってはいけないので、これだけを言ってお こう。本書では、数多くの新しい色と模様、数多くの新しい次元、いくつかの新しい旋律(少なくとも、ほとんどの人にとっては新しいだろう)、そして新しく 豊かなハーモニーが提示されているのである。
   スコット・マクナイトは、現代キリスト教、特にアメリカにおける現代キリスト教の弱点を指摘する。多くの人にとって、「福音」とはイエスの死とその意味 するもの、そしてそれを受け入れるときの人々の祈りを指すものに縮小されてしまった。それらは確かに重要なことである。ヘリコプターのプロペラがどのよう に回るかが重要なのと同じだ。プロペラがなければヘリコプターは地面から飛べない。しかし、プロペラはヘリコプターの一部分に過ぎず、プロペラだけがヘリ コプターを構成するのではないように、贖罪論という小さな理論と信仰だけが、「福音」を構成するのではないのだ。
  ジョン・ストットが、「ある人たちは『極限まで簡略化した最小限の福音』について論じている」と言うのを、ずっと前に聞いたことがある。彼はそのような考 えを退け、こう言った。「極限まで簡略化した最小限の福音など、誰が欲するものかね? 私が欲しいのは、十全で聖書的な福音だ」。読者の皆さん、これこ そ、スコット・マクナイトが本書で提示するものである。先にも述べたように、彼の論説に同意できない部分も多少はあるかもしれない。しかし私たちはあまり にも長い間、全く聖書的だとはとても言えない福音を後生大事に握りしめ、それを土台に教会生活や慣習の大半を建て上げてきたのだ。今こそ早急に、本当に聖 書的な「福音」のヴィジョンを捉え直す必要がある。新世代のキリスト者は、新しい目線で物事を考え、1世紀の福音の大きな世界を振り返り、それから同じよ うに大きな21世紀の福音の世界が持つ機会に目を向ける、という責任を担うべく成長しなければならない。本書はそのために神が用いる一つの方法なのかもしれない。
N.T.ライト
セントアンドリュース大学教授
(新約聖書学及び初期キリスト教学、元ダーラム主教)


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翻訳者 中村佐知さんによる翻訳でお送りしました。当初、4月末までに刊行予定でしたが、諸般の事情で、5月中に刊行できる見込みです。いましばらくお待ちください。




最終章 福音の文化に生きる(2)

最終章のスニークプレビューの続きでおじゃる。
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 物語の民になる(
Big Pictureの登場人物として生きる)

 まず、キリスト者は「神の物語の民」とならねばならないだろう。福音について述べた後、何人かが私のところに来て、「ありがとうございました。先生のお話を聞いて、私は聖書を最初から最後まで読もうと決意しまし た。まだ一度も全部読んだことがなかったのです」というのは結構ある反応なのではないか。福音の文化の民になるためには、聖書の民になるところから始めなければならないだろう。しかし、ただ知識とし て聖書を知るのでなく、自分たちを形作る物語として聖書を知ることが重要なのではなかろうか。


イエスの物語の民になる(イエスの弟子として生きる)
  私たち は「イエスの物語」の中にどっぷり浸かる必要がある。私たちはその「イエスによって完結した物語の民」になる必要があるのだ。イエスの物語の民になるに は、たった一つの方法だけであろう。四福音書を読み込み、頭も心もその中にどっぷり浸かり、思い巡らし、かみしめ、じっくりと考えることで、イエスの物語 を自分と一体化させるのではないだろうか。

 このために、教会歴についても う一度考え、それに従うことの知恵を再評価すべきだと思うのだ。クリスマスと復活祭の意味を考え、それをもとにキリストと共に歩むという意味を考えることはじゅうようではなかろうか。

教会の物語の民になる
 使徒たちの書いたものが、イスラエルの物語とイエスの物語をいかに次世代に、また異なる文化に伝えたのか、そして当時の世代がいかに私たちの世代にまでつながっていったのかを見る必要があるのではないだろうか。聖書に対する「イエスのみ」のアプローチはちょっと問題だと思うのだね。福音とはイスラエルの物語がイエスの物語によって完結するものであるのだけれど、その福音は単なるイエスの物語ではないのではないか。それ以上のものである。イエスは、自分の物語は教会の物語として継続するものであることを、明らかに弟子たちに語っていた。私たちは、教会の中で現在も続くイエスの物語によって、私たちの物語を形作っていく責任を、イエスに対して負っているように思う。

  しかし、イエスがこの地上に聖霊を送り、イエスの共同体を力づけ、高め、導いてくれるようになったその日から、神がこの共同体の中でなさっておられること を、無視する権利は私たちにはないのではないか。そして、新約聖書の使徒たちの書き記したものを読むという新たな決意から始まるんじゃないだろうか。

私たちは何を信じているのだろうか
  私たちの信条(私たちが何を信じているか)をも知る必要がある。先に述べたように、信条と聞くと落ち着かなくなる人たちは多い。しかし、教会の知恵は信条 の価値と信仰の告白のうちにある。そこで、ネットで使徒信条やニケア信条、改革派信仰告白集や、ローザンヌ誓約やマニラ宣言のような様々の信条を読んでみ るとよいだろう。教会で信条と呼ばれるものを斉唱する人たちの中には、ろくに信じているわけでもない人もいるだろう。しかし、福音の文化を形作る者たちに 加わりたいと願うなら、長い年月の間、福音が教会に何をなしてきたのかを知る責任が、あなたにもあるのではないか。

変化に流されないために
 キリスト者は、福音の物語を過小評価し、また作り替えようとするような様々な個人主義、ニューエイジ思想や商業主義、消費主義といったこの世の物語に、対抗する必要がある。現代に生きる人間には、表面的な世界観に根ざした無数の偽りの物語が差し出されている。偽のものがたりは、福音の物語を書き換え、露骨にそれを破壊しようとする。福音の文化は、福音の物語を真実の物語として宣言することによって、それらの物語に抵抗可能だと思う。

 福音の文化を建て上げるために私たちにできることは、サクラメントの重視であり、洗礼の強調することであり、聖餐の強調ではないだろうか。

  インターネットやメディアで毎日洪水のように押し寄せるこの世の文化の物語に対抗する物語として、洗礼と聖餐を強調するならば、福音の文化を建て上げるこ とができるのではないか。洗礼と聖餐という行為の中に、イエスの救いの物語において完結したイスラエルの物語が体現されるかではないか。

神の物語を自分のものにする(Embrace the Story) 最後に、福音の物語によって救われ、変え られるために、私たちはこの物語をそのまま受け入れる必要がある。マクナイトは、この本を、誰が正しくて誰が間違っているのかを決めるため の神学的思索の書としては書いていない。正しさを定めるためではなく、キリストご自身に似た者へと全人的に変えられるために、使徒的福音を見極め、その福 音を自分のものにしようという彼の願いが書かれたものだそうだ。福音の文化は、まず私たち自身が完全に変えられてからでないと始まらないのではないか なぁ、と書かれていた。

 福音とは、イエスの救いの物語の中において完成されるイスラエルの物語であり、その物語は、この世において神の 民の中で働いておられる神の業についての物語であろう。福音の文化を生み出すために、この福音を自分のものとして受け止めるとは、聖書の物語を神の民につ いての物語として受け止めることなのではないか。教会を、その醜い部分も含めてすべて、神の民として受け入れられているのではないか。福音の文化は教会の 文化であろう。そしてそれは、人々が共に造り変えられていく教会の文化だろう。先に述べたような問題に、共に取り組むことで福音の文化へと変えられてい く、教会の文化なのだろう。

祈りについて
  福音の物語を自分のものとして受け入れるとは、神に聴き、神と語るという、神とのコミュニケーションの人生に召されることでもあるだろう。これを祈りと言 う。祈りには主に二つのスタイルがあるのではないか。一つは、私たちの願い、希望、必要など心の奥からわき上がる自発的な祈りといえよう。もう一つは、詩 篇など、聖書の祈りを祈ることである。 祈りといえば、イエスが私たちに与えてくださった「主の祈り」を抜きにして語ることはできないだろう。この祈りは卓越した福音の祈りである。なぜならこれ は、イエスの物語によって成就したイスラエルの物語によって形作られているからだ。この祈りは、福音の真理について神と語り合う一つの方法だろう。

神と共に生き、人々に仕える民として

 福音を自分のものとして受け止めるとは、愛と思いやりの心をもって他者に仕えるこ とによって、福音の文化を作り出すことでもあるだろう。神を愛し、ま た他者を愛するという、イエスの信条に見られるイエスの言葉に目を向けるにしても、わたしに従いなさいというイエスの招きの言葉に目を向けるにしても、あ るいは御霊の実を結び、御霊の賜物をいただくために神の御霊をあなたがたのうちに解き放ちなさいという使徒パウロの言葉に目を向けるにしても、福音の物語 は私たちを一人にはしないのではないかな。私たちの神は、遣わしたもう神でもある。したがって、私たちは、遣わされた民ではないだろうか。私たちの神は他 者に向かう神であるように、 私たちもまた、他者に向かう存在なのだろう。福音は私たちを宣教へと押し出す。神を愛し、自分を愛し、他者を愛し、世界を愛するという、包括的な宣教へと 私たちを押し出すことになるのではないかなぁ。

 イエスは生きて、死んで、葬られ、死からよみがえり、神の右の座に挙げられ、まばゆいば かりの栄光に満ち、御国がいつかやって来るというメッセージを轟かせているのではないかな。そのイエスによって体現された、イスラエルの救いの物語、それ が私たちの福音なのだと考える。
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ということだそうでおじゃる。

  現在、初稿の校正が終わり、修正点を校正中。

 来月中には、「福音の発見」というタイトルで、キリスト新聞社さんから刊行予定。

 チャンネルは、そのまま、次の投稿を待て。 

Originally Posted on 2013 Mar 28 by ミーちゃんはーちゃん

最終章 福音の文化に生きる(1)

 はい、みなさん、こんにちは。

ようこそお越しくださいました。今日は、キング・ジーザス・ゴスペルの最終章10章の内容をスニークプレビューしてみようかと。大体この賞は、まとめの章で、もともとコンパクトにまとまっているので、かなりまとめにくいが、できるだけのことはしてみよう。

 福音とは、イエスと使徒たちとによるいのちの物語の解釈である。福音こそいのちの源泉であり、福音こそ真理といのちに続く道なのである。福音を知らずに福音の文化を築けないので、福音と福音の文化という二つの概念を見てみよう。

 福音を把握するためには、神がこの世で何をなさっているのかを把握する必要があり、それはつまり、一つの大きな物語を語るということなのだ。

  あー、これ、NTライトというおじさんがいっつも言っている話とよく似ている。そのうち日本でも、NTライトの本が出るらしいけど、基本、あのNTライ トっていうおじさんが言っている聖書全体を読んでそれを一貫したものとして考えるべきだって主張とよく似ているのだね。ということで、NTライトの所説に は、「え、何が新しいん?あったり前じゃん」という反応も結構多いらしい。新約学者としてはいいのだけれども、牧会の現場としては困る、というところもあ るのかもしれない。そりゃ、ライトに推薦のことばを頼んだのもうなずけるってもんで。

 多くの人が思っているような、福音をカード一枚に凝縮することができるといった考えは、そもそも間違っているということになる。

 まぁ、この種の無理ゲーする人も多いので・・・・うちのキリスト者集団なんかでも。

 初めに神は、二つのエイコン(神の形(なり・似姿)に造られた者)として、アダムとエバを創造したもうた。初めに神は、一つの事を与えたもうたのだ。それは、この世界を、神に代わって治めることだったのだね。

 (以 下八重の桜の綾瀬はるか風で)だけんじょ、アダムとエバは神の言うことも聞がねーで、神の特権を侵してしもうたんだ。そったもんで、神の支配を簒奪してし もーて、ヘビっこと自分たちさーの声に従い、エデンっちゅうところでの、神といっしょに統べ治さめるっちゅう機会を台無しにしてしもうたんだと。ちーッと の間だったんだけじょ、この二人は、神を演じてしもうたんだと。(しかし、こう書いてみると、会津方言と栃木方言の類似性はあるよね。)

 コホン、コホン。普通の日本語に戻します。

  実に残念なおしらせではあるが、アダムとエバの子孫である人間は皆、同じパターンを踏襲したんだな。これが。結局、人間はみな、大なり小なり簒奪者なんだ ね。なので、人間は、神のもとで神と共に働く統治者ではなく、自ら神となって他人や、ほかの者に対する支配をしたがっちまうのだなぁ。これが。
 
 これが行き過ぎるとサイコパスになる。アメリカのサイコパスがどんだけえぐいか、については、Law and Order Criminal Intentあるいは、Criminal Mindsを見るのがよろしい。結構勉強になる。Criminal Mindsはちとえぐすぎるので必ずしもお勧めは致しかねますが・・・・。アメリカで教会がこのサイコパスに乗っ取られてカルト化した事例もあるようなないような…


  神は、ご自身とアブラハムとイスラエルの間に契約を置かれたもうた。それは、永遠の契約、贖いの契約となるはずのものだったのだ。神は、イスラエルの守護 者(護民官・President)として、イスラエルと共にいると約束されたもうたのだね。神は、アダムとエバに与えた統治の役割を、アブラハム、そして イスラエルに委譲したもうたのだね、

 神は彼らを選びの民とされたもうたので、彼らがエジプトで奴隷だったときも共におられ、彼らの守護者であり続けられた。神は、モーセという人物を通してイスラエルの民をエジプトから解放したもうたのだね。

  しかし、ここでまた残念なことに、イスラエルは他の国々のように王を求めちまったんだなぁ。神は、王権を設立することについて、最初は躊躇されたもうた が、最終的には、人間という簒奪者たちが望んだもの、すなわち人間を王として定めたもうた。サウルやダビデなどの王は、神の代理人としてこの地を統治する ための第三の形だったはずなのだが、彼らもまた簒奪者となって王としての統治に失敗した。サウルに至っては、口寄せに頼るという大変残念なことを人生の末 期にしている。

 結局、どの王も結局は簒奪者になっちゃった。そこで神は預言者たちを送り、王たちへの警告を与えたもうたのだ。預言者たちが叫んだことは、「唯一の統治者、唯一の真の王、唯一の神がおられる、その名はYHWH(ヤハウェ)である」だったんだね。

 耳があっても聞かないのは、世の習い、としか言えない、というもはや大変残念なお知らせ。どこでもありそうな話だなぁ。

 数百年にわたる沈黙の後(まぁ、外典を見ればそうでもないような気もするが、プロ系の人はこの記事の筆者でもあるミーはーちゃんを含めてあまり読まないので・・・・)、神は最後の計画を実行に移したもうたのだね。アダムとエバの子孫であると同時に子孫ではない方、簒奪者となることなく、この世を正しく治めることのできる方(=神)を歴史の中に送り込まれたのだなぁ。これが。それが、ナザレのイエス(ヨシュア:神は我が救い)を送られたのだね。そして御使いを通して、イエスは、後日イエスかメシア(メシアはヘブル語、それをギリシア語にすると、キリスト。したがってメシア=キリスト)として、神に代わって統治するようになるとマリヤに語られたんだな。これが。

 (この経緯はルカ福音書を参照のこと。)

  ナザレのイエス君は、人々をありとあらゆる問題から癒し、助け出し、赦し、救い、癒し、新しくされた人たちのための食卓につかせ、簒奪者を「愛される者」 に大転換したにもかかわらず、子孫たち(ローマ人とユダヤ人の両方)はイエスを殺すほうが、彼らにとって、非常に都合がよいと考えた。ご都合主義者の彼ら は、イエスに自分たちの邪魔をされることを恐れたので、イエスを最も低劣な方法である十字架で殺しちゃったんだよね。エルサレムの郊外のゴルゴタの丘のう えで。そして、簒奪者たちが支配権を握ったんだな。ユダヤを排除した後、ローマ帝国って形で。

 ローマ人はもちろん、当時のユダヤ人や、 復活を現実のものして目の当たりにするまでの弟子たちも、本来なら自分たちがその罪のゆえに被るべき死と簒奪の中に、実はイエスは入って行かれたのだとい うことを知らなかった。自らを神とする性質(罪)をもつ神の座の簒奪者が当然死ぬべき死を死なれたもうたのだね。イエスは彼らの罪(自らを神の座に座らせ ようとする性質)とその罪ゆえの神の当然の怒りを、ご自身の双肩に負われたのだ。イエスがこうすることではじめて、は彼らの簒奪を覆すことができ、また彼 らの死を覆し、もう一度やり直すことができることを。

 どうも、日本では、罪をいつの間にか倫理的な罪(人倫に反すること)、道徳的な罪(社会通念に反すること)と簡単に置き換えてしまっている人たちが多いのだが、聖書が言っている罪とは、そんな人間対人間の世界で考えられるちっぽけなことではない、とミーはーちゃんは思うぞ。神の座を奪っていること、自分が支配しようとしていることこそが問題なのだ。勝手に世界征服を図ろうとしていることが、神の権利を大きく損なう行為なのだ。

  神は、簒奪者たちの選択で全てが決まるわけではないことを示し、アダムとエバの子孫たちも全く新しい(創造の)家系に属すことが可能であることを示し、死 の支配を終わらせるため、イエスを死からよみがえらせた。これらすべてのことを明らかにするために、イエスは大勢の人々の前に現れ、それから神のもとに昇 られせしめられたもうた。

 まぁ、人間は簒奪者として、自 分の思う通りに何でもなる、自分の努力によって、自分自身の働きによって全部がきまると思っているけれども、そんなんじゃないよね、というのがヨブ記の思 想である思想であるだろう。そして、死のすでに支配しない、ということこそが、パウロの第1コリント15章の主張なんだろうなぁ、と思う。

  神に立ち返り、ナザレのイエスが神であることを認めるなら、聖霊によって人々は力を受け、神の座から神を無理やり蹴とばして、追い出してしまった簒奪者か ら、神の愛、平和、公正、神のしもべへと、変容していくことができる。私たちの持てる全てを尽くして神を愛し、神にあって他者を愛する、これこそが神の国 における政治であり、神の代理人としてこの世を治めるための方法なのである。つまり、神が、ご自身の新しく造られた民と共に、全てのことをもう一度やり直 すことを選択されたのである。一番重要なことは、イエスこそ真の王であり、真のメシアであり、真に神のかたちに造られた方であり、真の主なる方であった が、神はイエスに従う者たちに、当初アダムとエバにお与えになった役割と同じ役割をお与えになったのである。

 他 者を無理やりに、強制的に愛するのは、それは愛ではないだろう。それを愛と呼ぶのは問題だろう。神を愛さないと、神を愛さないと、神を愛さないとという形 で愛するのは、もはや愛ではないだろう。王(メシア=キリスト)である、イエスと共に治めるというとおこがましいが、イエスと共にその責任を与えていると いわれているがゆえに、我々の両県において愛するような気がするなぁ。

 現在人間は、不完全な神のエイコン(姿、なり、 形)として、不完全な世を、不完全な方法で治めている。しかし将来、完全なエイコンが戻ってくる。そして完全なエイコンでもあるナザレのイエスはご自身の エイコンたちを助け、イエスが神殿となり、永遠の都となり、平安と愛と喜びと聖さとで満たされるからなのではないか。そして、人間は神の代理として、イエ スの方法で治めるのだな、これが。それも、

永遠に。


わ しらはもともと、神のエイコンだし、神のエイコンに永遠になる、というのが、福音じゃね?永遠のいのちを得るために、信じないといけないとか、滅びるとい けないから信じないといけない、とか、倫理的に清く正しく生きないといけないとか、毎日聖書読まないといけないとか、毎週教会に行かないといけないとか、 ひょっとしたら、そんなことじゃないんじゃね?イエスやペテロやパウロが言った福音って、そんな事をメインで言ってんじゃないんじゃね?ということがマクナイト先生のご主張である。

 あ、エイコンっちうのは、最近のコンピュータ語でいう、マウスでクリックするあれですよ、あれ。

 icon(アイコン)なんですな。念のため申し添えると。


 じゃ、どうすればいいのか?ってことについて、マクナイト先生がどう言っているか、に関しては、また次回。

Originally Posted on 2013 Mar 13 by ミーちゃんはーちゃん

現代の社会における福音の宣言

 はい、みなさん、いらっしゃいませ。

このブログの管理者でもある、ミーはーちゃんでございます。

 ここのところ、このブログがおさぼりになっているので、最後の辺の文章をご紹介しようかと。

 今日は、9章の中で展開されるマクナイト先生のご意見をちょっこしご紹介。(スニークプレビュー)なんか、聞くところによると、日本で、この本の日本語変換された翻訳本が出るらしいですよ。作業がほぼ終わりましたらしいです。

  現代の社会の中での福音宣教(福音を宣言すること)について、聴衆の背景に合わせてクリエイティブに語り口を調整する必要があるのは、パウロやペテロの時 代でもそうだったが、今日でも同じではないだろうか。フレッシュな御霊の風が使徒たちに与えられていな大胆さが、私たちにももう少し必要なのかもしれな い、とマクナイト先生はご主張しておられる。

 マクナイト先生の主張をざーっとまとめると以下のような感じ、こんな感じでしょうかね。たぶん。
 
 使徒たちは、福音は、イスラエルの物語という枠組みを持つ、としゃべっていた。つまり、イスラエルの物語を完成させるものとしてイエスを語ったのである。

  そこで、パウロが同福音を語っているかを第1コリント15章から論考しておられ、この部分に語られたことは、福音書の中の福音であり、イエスご自身の福音 であり、ペテロの福音であり、また、パウロの福音でもあるのであるとしており、それこそが唯一語るべき福音であはないか。

 第1コリントの使徒たちの福音の宣言と現代の伝道の比較を以下の6つのポイントにまとめられるだろう。

ポイント①
 使徒行伝での使徒たちの福音の宣言は、聴衆からの応答を促す大胆な宣言であったのに対し、今日多くの教会で聞かれる伝道の大半は、小賢しい説得になってしまっている。

ポイント②
 福音の原点は救いの物語や贖いの物語ではなく、旧約聖書に示されたイスラエルの物語によって突き動かされていること、現代の福音主義者が語るような贖罪の神学らしきものには、ほとんど触れられていない。
 第1コリント15章では、神の怒りのなだめ、罪、自我、社会制度やサタンの拘束から自由にされることもまったく触れられていない。

ポイント③
 使徒行伝によれば、使徒たちは伝道するときに神の御怒りに焦点を置いていないし、地獄に行かずに済む、という形でイエスの救いの物語を語ってもいない。ただし、最後の審判は初期のキリスト者の福音伝道の働きには、関連していることは確か。

ポイント④
 使徒たちが、福音で解決しようとしていた「問題」は、罪と、神の力の不在と、新しい創造の必要ではないか?それを、これらのテーマを単なる個人の永遠の命があるかないかといったような個人主義に縮小してしまうなら、それはまつがい、ではないか?
  何が罪かというと、アダムとエバは自分たちを神の役割にまで高めたことではないか。私たちが神の国における、神の権威を不当にも奪取した簒奪(さんだつ) 者であるうことではないか。つまり、本来の神から与えられた神と共に生きる姿(アイコン)を乗り越えて神になろうとした。それが罪であろう。
 しかし、メシア(油注がれた者)としての王としてのイエスの働きは、本来神の民である私たちを、もう一度その神の民としての働き、王なる姿、すなわち神から与えられた神と共に生きる姿(アイコン)としての役割を回復するように任命しておられるのである。

ポイント⑤
  初代のキリスト教徒は、政治的手段によらず神を信じることで、皇帝崇拝がなされていたローマ帝国を転覆させるに近いことを福音に込めていたのではないか、 キリスト者が福音(イウワンゲリオン)を公の場で言い始めたのは、スタントンによれば、偶像崇拝でもある皇帝崇拝の勅令が出たころで、それに対抗するため ではないか、ということに着目したほうがいいのではないか。

ポイント⑥
  使徒たちの伝道は、イエスの物語を語ることでなされたのだが、現代においては、福音を語ったり伝道したりというと、人がどうすれば個人的に救われるか(永 遠の命を持てるのか)という形に短絡化した物語を語る傾向にある。つまり、唯一、罪人の心だけになっていないだろうか、そして、人に自分は罪人だと認めさ せ、イエス・キリストを救い主として受け入れさせ、罪の問題を解決することに短絡化してないだろうか。
 たしかに、使徒的福音は罪の赦しも約束したが、イエスについての(救いの)物語を語ることによってのみ、その罪の許しを語ったのであって、現代の伝道というところでは、罪の許しを主に語り、イエスについての物語を十分に語っていない、主客逆転が起きているだろう。

 現代で広く語られてる福音にはイエスがあまり含まれていない。それは、「イエスは福音を宣べ伝えたのか?」という、今日多くの人が問うている疑問からも明らかではないかな?次章最終章では、これに対する対応が触れられる予定らしい。

 ということだそうで。

  塩野七生さんをはじめ、「イエスは好きだが教会嫌い」という人が出てくる背景には、現代の教会が、箸の上げ下ろしや生活の隅々までくちばしを入れてくるよ うな鬱陶しさが嫌いなのであって、イエスは本当にそんなことをいったのかい、ということもあるのだろうなぁ、と思うた。

 ということで、次回、最終章へと続く。チャンネルはそのまま、次週を待て。 


Originally Posted on 2013 Feb 05 by ミーちゃんはーちゃん

キング ジーザス ゴスペル 翻訳者からのメッセージ



このプロジェクトが始まって、ほぼ1年がたとうとしている。

最初、このブログのメインライターであるタカ牧師がこの本 を初めて日本で紹介してくださって以来、ミーちゃんはーちゃんさんが、この本を読んで感想を書いてくださったりしながら、そして、翻訳書を出版してくれそ うな出版社を探し、翻訳してもいいよ、という翻訳者のはちこさん(この業界の有名人)が見つかり、そして、現在はちさんのところで、最終翻訳が進んでい て、その裏話が公開されている。

リンクは、http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20121201

である。はちこさんらしい、しっかりとした翻訳が進んでいるようにお聞きしている。ある程度の翻訳が終わったら、出版社に持ち込んで、出版企画となり、訳者校正等を経て、出版に至る予定だときいている。

 これまで、タカ先生が書いてくださっているように、この本には、現代の福音派の皆さんが効いているとは違った、初代キリスト教界時代の福音とは、かくなるものであったかという福音と救いの中身が書かれている。

 あと、翻訳は、もう少しのところまで来ている。

  皆さんにお願いしたいことがある。もし赦されるならば、ぜひ、この本の完成に向けて、祈ってほしい。そして、もしこの本が出版される日が来たら、ぜひ、手 に取ってじっくりと繰り返し読んでほしい。そして、自分自身の救いの理解や福音の理解について考えてほしい。いったん立ち止まって。

 そ して、正しい伝統にのっとった、骨太の福音を他の人たちに伝えてほしい。お湯をかけて3分待つような、安易で安直な霊性ではない、もっと深く奥行きのある 霊性で、人々に語ってほしい。それが、私は、神があなたに期待しておられることだと思うし、あなたがキリスト者であるならば、あなたはそのためにも召しだ されている、とおもうのだけれども。



 はちこさんが書いておられた記事があるので、それについても触れておきます。

特に上側のリンクはマクナイト教授の映像つきで重要。



2011年9月7日MEMO: The King Jesus Gospel
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20110907

2011年9月13日MEMO:小嶋先生のブログより
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20110913

Originally Posted on 2012 Dec 04 by ミーちゃんはーちゃん


シカゴでのマクナイト先生(キング・ジーザス・ゴスペル著者)とNTライト教授のディスカッション

 キング・ジーザス・ゴスペルの著者のマクナイト教授が「教会と神の国」と いうお題で、教会と世界に役割について発表し、それにこの本の関東紹介をお書きになられた有名人のお一人の今話題のNTライト教授が応答するというイベン トがアメリカ合衆国のシカゴにあるシカゴヒルトンで、日本時間の土曜日(現地時間、金曜日の夕方)開催されたようです。

 その詳細な模様を、キング・ジーザス・ゴスペル ブログの現地駐在特派員(ははは・・・・)のはちこさんが、生写真入りで公開してくださっています(駐在特派員さんの貴重な生写真入りです。はちこさん消さないでね)。必見です。

 詳細は、こちらをクリック

皆さん。ぜひ。

Originally Posted on 2012 Nov 19 by ミーちゃんはーちゃん

「信仰義認」と「福音」

 このブログの最初に広告が出てくるようになったので、ちょっと軽く記事を。

前回の小嶋先生の記事で、

「信仰義認」を福音そのものであるかのように受け取る見方がありますが、少なくとも使徒たちの福音がもたらす「救い」の表現の仕方はそのようには限定されていません。

と いうことを指摘してくださいましたが、「信仰義認(イエスをキリストとする個人の信仰によって、信仰者が正しいもの、神の子供であると、神から認めてもら うこと)」は、「救い」の根底としてキリスト教徒にとって、大事なものなのですが、イエスが語った「福音」の方が、はるかに広い概念で、「信仰義認」「救 い」を受けた人が、そもそも、神(メシアあるいはキリスト)の王国の国民となり、地上で神の国民が生きることで、神に対して栄光を帰すことができる、とい う概念を含むのが「福音」なのではないか、というのがマクナイト先生のご指摘、だと思うのですね。

 ただ、このことを受け入れるために は、聖書が持つ世界観というものをまず全体として受け入れる必要があり、信仰をもったばかりの人(あるいは、信仰をもって相当時間的に経過した人でも) は、この世界観全体を理解することができにくい、という側面から、信仰義認を強調して語る傾向があり(語ってきた傾向が、筆者にはあり)、それが「『信仰 義認』=『福音』」という誤解を人々(キリスト者を含めて)がするように、仕向けてしまっているのではないか、と思うんですね。

 イスラ エル人にとって、あるいは、古代地中海人にとって、王国とは、帝国とは違い、都市国家という言葉に代表されるように、非常に狭い空間的領域で、王と国民と が共に住む、という概念があるのではないか、と思うのです。日本では、王とかの権威者を遠ざけたい(なぜかというと、童話の中に出てくる王様は大抵うっと うしい人たちだったりするし、天皇様のように神格化された存在の方なので)という気持ちが強いのですが、どうも古代地中海世界では、王国というのは、日本 人が想像する以上に、王と国民との距離が近いものだったようです。

 そんな近しい関係の中で、共に神である王と暮らす世界が、キング・ ジーザス・ゴスペル、即ち、イエスが王である国の福音、だったりする、というのがマクナイト先生のご主張なのです。それが今の教会では、ややその部分の強 調が薄くなっていませんか、ということがこのキング・ジーザス・ゴスペルのご主張だと思います。

 
Originally Posted on 2012 Oct 03 by ミーちゃんはーちゃん

使徒たちは福音をどう説いたのか?②

今晩は、タカ牧師です。

今回は、第8章『ペテロの福音』の後半を紹介します。

章のタイトルは『ペテロの福音』ですが、使徒たちの「福音」が聴衆によっても変わらぬ「イスラエルのストーリーを完結するイエスのストーリー」であることを、パウロの説教で確認します。

ご存知パウロは「異邦人への使徒」であり、使徒行伝に収録されているパウロの説教も異邦人が聴衆です。
ではユダヤ人と異なり、聖書的背景を持たない異邦人にもパウロは同じように「福音」を語ったのでしょうか。

結論から言うと、「イエス」です。
しかし応用はなされています。
その辺をマクナイト教授はこの章の後半で見ようとしています。

使徒行伝14章のルステラでは、パウロとバルナバが、「神々の降臨」と町の人に間違われ、危うく礼拝されようとします。
「偶像崇拝」を押し留めたパウロは、「福音」説教を「真の神であるお方」と「神の善性」に焦点を絞って語ります。
「イスラエルのストーリー」はここでは「創世記に見られる創造者なる神」のストーリーです。

使徒行伝17章、アテネのアレオバゴスの説教でも、やはり「創造者なる神」を中心として「福音」は語られます。
ここではパウロは「イエス・キリスト」も「イエス・キリストの十字架の死」も語りません。
聴衆の理解度に合わせて「福音」の語り方を調整しているのです。

パウロは説教の最後で「死者の中から復活した審判者であるお方」のことをギリシャ人に提示します。
ここから「その人間(イエス)とは誰だ。」「どのようにそんな権威が与えられているのだ」と言う聴衆の疑問が引き出され、そこから「福音」が語られる筋道が出来ます。

パウロは聴衆によって「福音」の語られ方を調整しているのです。

使徒たちの説教は単なる教え・アイデアの伝達で終わりません。
説教を聞いた者たちに「応答」を求めるのです。

使徒行伝2章のペンテコステ説教や10-11章にも見られるように「イエスのストーリー」を聞いた者たちは、「信じ」「悔い改め」「バプテスマを受ける」ように応答が求められているのです。

信仰・悔い改め・バプテスマ、これらは互いに関連しています。
どのように関連しているか、マクナイトは次のような関連付けを試みています。

faith is the big idea with repentance and baptism as manifestations of that faith. The one who turns in belief to Christ turns away from (the word picture in the word repent) everything and everyone else - and Paul calls them to turn away from idols (Acts 14:15) - and the one who trusts in Christ obediently embodies that faith in baptism. (p.129)

(※この分析は現在の個人的回心がしばしば一種の贖罪論(説)を信じることとなり、洗礼とは切り離され体験となることと比較すると重要な指摘を含んでいます。)

「福音」は贖いをもたらすものですが、その聖書的表現は一様ではありません。
使徒たちは様々な表現を用います。

マクナイトが最初の方の章で指摘したように「信仰義認」を福音そのものであるかのように受け取る見方がありますが、少なくとも使徒たちの福音がもたらす「救い」の表現の仕方はそのようには限定されていません。
Jesus saves, and it is the telling of his story that prompts people to respond in faith, repentance, and baptism and so be saved - forgiveness, the Spirit, refreshing, and the new community of God made of Jews and Gentiles alike. (p.131)
さてここまででマクナイトの言う「福音」理解を支える『椅子の4脚』が揃うことになります。

『椅子の4脚』とは、
①使徒的福音伝承(Ⅰコリント15章)
②イエスの福音
③四福音書の福音
そしてこの8章で見たように
④使徒行伝の福音説教
以上です。

ではこれをベースに如何に今日的に「福音」を語るか、が次の章の課題となります。

Originally Posted on 2012 July 24 by タカ牧師

使徒たちは福音をどう説いたのか?①

こんにちは、またもやお久し振りです、タカ牧師です。

更新が出来ないでいることを気にしていたのですが、ここまで遅れてしまいました。

でも原著、英語版は本文160ページ。今回紹介する第8章『ペテロの福音』は113ページからですから後半なかばに差し掛かっています。大分進みましたね。

前(7)章ではイエスは「福音」を宣べ伝えたのか、つまり「イエスのストーリーがイスラエルのストーリーを完結する」ことを自ら示唆したのかどうかを福音書資料に当たりながら見たわけです。

8章では今度は使徒たちが同じように「福音」を語ったのかどうか、「使徒行伝」に収録されている説教を見て行きます。

使徒たちの説教と言っても使徒行伝には(ステパノのスピーチを除けば)ペテロとパウロの説教が収録されています。
但し章のタイトルにあるように、マクナイトが注目するのはペテロの説教の方ですが。

マクナイトは使徒行伝には使徒たちが「福音」の要約を語ったスピーチが7つ残っていると言います。
①2:14-39
②3:12-26
③4:8-12
④10:34-43と11:4-18
⑤13:16-41
⑥14:15-17
⑦17:22-31

マクナイトはこれらの「福音」説教の要約は「イスラエルのストーリー」を枠組みにしていると、と指摘します。
枠組みとなっているのは、「救いの計画」でもなければ、「贖罪論」でもない、と言うことです。

マクナイトはこの「イスラエルのストーリー」の枠組みは、既に彼が指摘したオリジナルな福音、プロトタイプとも言えるⅠコリント15章が言っているように「聖書の示す通りに」を物語るものだ、と言うのです。

言ってみればⅠコリント15章が「福音」の簡潔な提示、譬えれば『骨』とすれば、使徒行伝に収録されているペテロやパウロの「福音」説教(スピーチ全部ではなく、その要約されたもの)はその『骨』に『肉』や『脂肪』を付けたようなものだと言うのです。

確かにⅠコリント15章3-28節に見られる「福音」のすべての要素を網羅した説教はないかもしれませんが、挙げられたペテロの説教四つ(①~④)を合わせてみるとちゃんと「イエスのストーリー」のすべてのポイントが含まれている、と指摘しています。

復習のためにすべてのポイントとは何かと言うと、
①イエスの生涯
②イエスの死
③イエスの復活
④イエスの昇天・着座
⑤聖霊の賜物
⑥イエスの再臨
⑦歴史の完成において「神がすべてのすべて」となられること

さて、使徒たちは「福音」説教でどのような「イエス像」を提示しているのでしょう。
マクナイト教授は新約学者、特に史的イエス研究の専門家でもあります。彼の周りの研究者たちはそれぞれ福音書資料などを取捨選択しながら自分たちのイメージした「イエス像」を再構成しています。
「社会活動家」
「預言者」
「共和党政治家」
「民主党政治家」
「マルクス主義者」
「反皇帝主義者」などなど。

マクナイトが使徒行伝の「福音」説教から見出すイエスについての最も大切な「像」は次の二点です。
①イスラエルのメシヤ
②すべてのものの主
使徒行伝2:36と10:34-38を見ると、その二点がペテロによって語られています。

ナザレのイエスを歴史的に再構成する研究は大切なものですが、使徒たちの「福音」説教が提示する「イエス像」から逸れてしまったらそれは的外れになってしまいますね。
Let this be said over and over: the apostolic gospel was framed in such a way that the story was centered on and revolved around Jesus. To gospel was (and is) to declare the royal truth about King Jesus, Jesus was (and is) the gospel.
では次回は8章の後半をご紹介します。

Originally Posted on 2012 July 08 by タカ牧師

イエスと福音②

 さて、またまた時間が経ってしまいました。

お約束したように今回は7章の後半を軽く紹介します。

前回引用した英文の部分をよく気を付けていてください。
イエスが宣べ伝えたのは何だったか?
イエスの神の国のメッセージは何についてだったのか?
マクナイト教授は、「それは突き詰めて言えばイエス自身についてだった」ということです。

ただ気を付けなければならないのは、「イエスは自分を宣べ伝えた」という時、それは単なる自己PRではなく、「イスラエルのストーリー」「救いのストーリー」を完結する者としてだった、ということです。

では後半の部分でマクナイト教授がこの主張を強化しようと選んだ三つの福音書エピソードを紹介します。

①イエスの道徳的教えのビジョン
イエスは「山上の垂訓」(マタイ5-7章)の中で特に、「私が来たのは律法を成就するためだ」と言っていますが、「律法にはこうあるが、私はこう言う」と言う形で教えを述べています。
ここにイエスご自身が「律法と預言者」を成就する者としての認識が見られます。

②十二弟子の選び
イエスはイスラエルの十二部族、つまりイスラエル全体を意味する12人として弟子を選ばれたことが考えられます。そしてご自分はその12人の上に「主」として立つ者としての自覚が見て取れます。

③イエスご自身の死の意味について
既にご自身の死を予告しておられたイエスは、最後の晩餐の席で「過ぎ越しの食事」をしながら、ご自身の死が聖書が示す新しい契約を決定付ける意義を持つことを示されています。

以 上三つの点と、さらにルカ24章で復活後に弟子たちに「聖書」は人の子イエスの死と復活を証言するものとして書かれていることを示されていることとを合わ せて、イエスが語っていたのは「イスラエルのストーリー」を完結する者としてのご自分であった、とマクナイト教授は結論します。

さて、福音書から色々と言及がなされましたが、簡単に言えば、「福音書に見るイエスの『ことば』と『行い』」は実はイエスご自身にフォーカスしている、と言うことです。
「イスラエルのストーリー」の焦点はイエスご自身にあった、ということです。

この章が語ってきたことは、「イエスの意味」を解く鍵は「イスラエルのストーリー」と言う枠組みでイエスに照準を合わせることだ、ということですね。

Originally Posted on 2012 Jun 14   by タカ牧師