2013年8月27日火曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・東京編 ご報告

先日、8月25日に持たれたイベントの報告です。

イベントと言っても、関西編と同じく、いやもっと小さなイベントです。

当日は、その前の日曜日に「奨励」をしてくださったYさん、そしてYさんが誘ってくださったKさん、そしてOさんと小嶋の4人でした。

2時前に皆さん集まったので時間前に開始。

最初は自己紹介を兼ねて自分の「キリスト教」との関連みたいな話。
一巡して小嶋の番になったので、その延長で「ミニトーク」をしました。

小嶋が強調したのはマクナイトが着目したⅠコリント15章の「福音」の中でもその「出来事性」(これは関西編の時と同じ)、それが出来事の「神学的解釈」よりある意味優先順位が高い、と言うポイントでした。

少し誤解を招く言い方かもしれません。

というのも「解釈のない事実そのもの」と言うことはないわけですから。
ただⅠコリント15章の提示の仕方を見ると「伝承」の中心は出来事の「神学的解釈」ではなく、「イエス・キリストの出来事」そのものと言えるだろうと思います。

僅かにイエスの死に関しては「わたしたちの罪のために」(15:3)と付されていますが、それは新約聖書に展開されている「イエスの死」の意味の多様な解釈と比較する時、ミニマムなものだと言えると思います。

そんな話をした後で、各自の「福音の再発見」の読後感を語り合いました。

たとえばKさんだと、自分が通ってきた教会で感じることと「聖書に見る」キリスト教の間にある「齟齬のようなもの」を、マクナイトが『福音』と『救い』を区別したことによって、その「齟齬のようなもの」を少し理解できるようになった。

自分が感じている「現実の教会」とのずれがどのように生じているかが少し見えるようになった。
それだけでも買った価値があると思っている。

とか、Oさんのケースだと、中年になるまでなかなか仕事に時間を取られて「信仰」を(神学的に)吟味することがなく、いわゆる「サンデー・クリスチャン」できてしまっていたのが、中年に差し掛かったここ数年幾つかのキリスト教書に触れて、保守的な信仰をただ守るだけでない、「考える」部分があることを発見し始めた。「福音の再発見」はそれらの書物の一つだ。

この他「神の義」に関する神学談義や、「福音」を日曜日以外にも生きる、社会や世界への適用の問題、知的な信仰に偏らないため「礼拝」と言う習慣を毎日続けること(聖公会の利点)、などなど予定時間を越えて語り合うことが出来ました。

と言う訳で、「福音の再発見」発売から約1ヵ月後の、御茶ノ水CLC書店でのインストアー・トークイベントと比較すると大分こじんまりとしたものになりましたが、二つの「ファン感謝デー」イベントを終了することが出来、感謝でした。

後はこの波が少しずつでも波紋のように広がっていければいいな、と思っています。


2013年8月20日火曜日

発売後の反応⑨

本の方の売れ行きは「一落ち着き」しているようです。

しかしブログの方にはちらほら「読者の反応」が続いて出てきているようなので、嬉しい感じです。

今回見つけたのは「長田家の神戸便り」というブログ。
神戸にあります日本イエス・キリスト教団事務局で働きをしています。
と言う方。失礼ながら名前が出ていないので「長田」さんと呼んでおくことにいたします。

ななんと、マクナイト『福音の再発見』について連載しているのですね。
「1971」という序文がついています。この序文タイトルは、著者17歳、信仰を持ったばかりの時期に経験したエピソードが1971年の出来事だったとこ ろからつけられたものです。これは、教会の執事による訪問伝道に一緒についていった体験で、福音に何の関心も持たない男性が、余りに熱心な「伝道」によ り、とりあえず「キリストを受け入れる決心をした」というものです。「伝道とは何か」「福音を伝えるということはどういうことなのか」という著者の問題意 識の始まりとなった出来事です。
これはシリーズ「その①序文」からの引用。

現在、その⑨:第8章後半まで進んでいます。

すごいですね。

注意深く読み進めていますね。

「ナルホド」と「どうかな?」と言うカテゴリーを用意して内容にかなり詳細な検討を加えています。

率直な論考が重ねられていますから、他の読者の方々も参考になさると良いと思います。

タカ牧師ももう少しちゃんと読んだら、気がついたことを書いてみようかと思います。

という訳で簡単にご紹介まで。

2013年8月19日月曜日

「福音の再発見」ファン感謝デー・関西編 ご報告

いやー暑い日でした。

日曜日の午後ですから、中々出にくい設定だったのですが・・・。

2013年8月11日(日)、午後2~4時

場所は神戸・三ノ宮駅近くの、神戸市勤労会館・特別応接室

部屋は広々快適でした。

早めに大阪から来会されたWさんと、ひとしきり色々おしゃべり。
まだ「福音の再発見」は読了なされていない様子。

もう一人参加予定のHさんを待ちながらさらに色々おしゃべり。
相互に関わりがある、Sさんや、T先生や、O先生のことなど。

時間が過ぎたので、まだHさんが到着していませんがスタート。

最初はタカ牧師のミニトーク。
お話の起点は、「福音の再発見」の第4章のゴルフコースのエピソード。
日本での発売直前に行なった、マクナイトとのEメール・インタヴューでも確認されたことだが、
・・・その時こう言う順番で調べて行って欲しい。先ずコリント第一の手紙の15章。それか ら使徒の働きに出てくる説教。それから福音書自体が福音な のかどうかを問うてみて欲しい。そしてテモテへの手紙第二の2章8節を読んで、そこに言われていることが福音かどうか問うて欲しい。
新約聖書が語る福音、使徒たちが伝えた福音、をどのように検証するのか。
もちろん新約聖書に照らしてその作業をするのだが、マクナイトはその時に相応しい順番がある、と言うわけです。


本書でもそのように取り扱っていますが、この時のインタヴューでもそのポイントが再確認されました。

要するにパウロが福音の核心として「伝承された」、イエス・キリストの出来事(ストーリーとも言い換えられる)のクライマックスである
「(十字架による)死」
「葬り」
「復活」
が「聖書に従って」起こった・・・と言うことが最重要なことなのだ。
そのことを私たちが再確認することから「福音の再発見」は始められるべきだ・・・と言うのがマクナイトの最も言わんとしている事である。

・・・そんなことをタカ牧師自らの「気付きの体験」を交えながら話し始めました。
(当日録音したテープを聴き直してみたところ、「聖書に従って」起こった・・・という部分は残念ながら抜けていました。)

Ⅰコリント15章を読み始めようとしたところで、Hさん到着。

ミニトークを要約すると、Ⅰコリント15章での福音の核心部分は歴史的に起こった「出来事性」にある。福音派が「救いのメッセージ」に要約する「私たちの罪を赦すために身代わりになって死なれた・・・」というイエスの死の出来事の「救済論解釈・意味づけ」が福音の中核として伝承されたのではない、と言うこと。

「初めが肝心」と言うことは、この順序「先ず出来事があり、しかる後にその救済的意義が深められて行った」と言う順序の後先が逆になってはならない・・・と言うのがタカ牧師のミニトークのポイントでした。

その後フリートークとなったのですが、何かの拍子に「イエスの復活」の話題が持ち上がり、
「死後遺体はどうなったんですかねー」
「遺体はどうなったか分からないけど、とにかく天に挙げられたわけでしょ」
「教会学校ではイエスは私たちの心に(復活して)生きている、みたいに教えているみたいですねー」
等々、何とも「イエスの復活」についての使徒的福音が、一部の教会の教えでは骨なしになっている様子が浮き彫りになってきたわけでした。

それでひとしきり「イエスの復活」の事実性を、「キリスト教会成立」の根本要件として説明する長い話に相成りました。

以上がイベントの報告です。

期待より少ない参加者でしたが、暑い中お越しくださったWさん、Hさん、ありがとうございました。
会場の用意や、眠気覚ましのアイスクリームを提供してくれたミーちゃんはーチャンさんのご労にも感謝。

今度は東京は巣鴨(つまりはタカ牧師のホームグラウンド)で、8月25日、午後2-4時、開催しまーす。

2013年8月16日金曜日

ある読者からの疑問

去る8月11日(日)に、神戸三宮で持たれた
「福音の再発見」ファン感謝デー

の報告はまた後日することとして、
今回はブログではなくSNSから入手した「読者の反応」と言うことで取上げさせて頂きます。

疑問その①「簒奪」
先ず、長くなりますが、コメントを引用させて頂きます。
「この世界を、神に代わって治めること」(210頁)の「世界」というのは被造物全体、被造物同士の関係というふうに理解しました。
動植物を含む自然環境、自分の身体、他人の身体、それら同士の関係。
「治める」というのは管理するというふうに理解しました。

「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は「世界」を自分の所有物のようにあつかうというふうに理解しました。

管理を任され ていた管理人が、任されていた土地や家屋などの物件を台無しにしたり勝手に売り払ったりするというイメージ、自分の身体を傷つけたり自殺したり、他人の身体を傷つけたり殺したり、人間同士の関係を破壊したり、自然環境との共存を拒否してそれをねじ伏せるようなイメージ。筆者自身はどんなイメージで、治めるとか、簒奪とかいうことばを使っていたんでしょうか。

「簒奪」「簒奪者」は英語では、"usurp" "usurper"の訳語で、校正の時も含めて適訳がないか、色々と迷った語の一つです。

最初から「大きな話」になって恐縮ですが、マクナイトは「王なるイエス」を、創世記から始まる「エイコン(神の像)」の任務の引継ぎストーリー(アダム→アブラハム→ダビデ)を完成するお方として提示するのが『福音』だ、と言っているのだと思います。

そうすると、「この世における神の支配を簒奪し」(211頁)の簒奪は、アダムがエイコンとして、神の代理者・代理王として非常に高い位置に置かれていながら、神ご自身の権威を奪い取ると言う、かなり倒錯的な反逆行為を行なった、と言うことであり、単に道徳的に逸脱したとか、命令に違反したとかのレベルの話ではない、と言うことを指摘しようとしているのだと思います。

ですから、「王なるイエス」の福音は、イエスが真の「神のエイコン(神の像)となられることによって、そのとてつもない罪の解決者として提示されるストーリーなのだ、となるわけです。

その神学的ストーリー構成を、ピリピ2:6-11、コロサイ1:15-20、Ⅱコリント3:18-4:6に見ることができる、と指摘しています。

疑問その②「gospelか、それともgospelsという複数形か、の話
先ず、また、コメントを引用します。
112頁に出てくるgospelかgospelsかという複数形の話について。言いたいことはよくわかりますが、 ここまでわざわざ福音は複数ではないと言わなければならないのか、理解に苦しむとまでは言いませんが不思議な気がします。「四福音書」という日本語を見て、福音が複数あるなどとは誰も考えません。ただ福音書が4つあるんだなと思うだけです。「単複両用形」が欠如した言語を使っているからこそ生じるこだわりなんでしょうね。

この問題は、「福音」を私たちが理解する場合陥りやすい誤解に関連しているだけでなく、「福音」はそもそも一つだ、と言う確信に遡る重要な問題だと思います。

と言うわけで、「単複両用形」に関する彼我の言語の違いから来る問題ではないと言えるでしょう。

既にこの本でも論議されている「イエスの福音」と「パウロの福音」との相違が果たしてあるのか、と言う問題が出ています。

さらに現在の読者は「福音書」があたかも「文学ジャンル」として存在していたような印象を受け取りやすい、と言う問題もあります。(四福音書にはもともと「福音書」などと言う定義は含まれていません。マルコの冒頭にある「福音」もタイトルを表すかどうかは議論されています。)

マクナイトはここでは議論に含めていませんが、現在の新約聖書学には「トマスの福音書」や他の「福音書」も、キリスト教の多様な表現として認められるべきだ、と言う議論があります。

四福音書が複数の福音書ではなく、異なる、匿名の著者による、「一つの福音」として認識されることはかなり重要な神学的認識・判断を含むものだ、と言うことだけ指摘しておいた方がいいでしょう。

Ⅰコリント15章の「福音」は、使徒たちによって「伝承された福音である」という時、それが真正性が担保されたものであることを示唆するものであり、使徒たち以外から伝えられた「異なる福音」に対する規準ともなるわけです。

その意味で単数形で言及される「福音」は文書化される前も後も重要なポイントだと言うことをマクナイトは指摘しようとしているのだろうと思います。
  

2013年8月5日月曜日

マクナイトのサイン付き「福音の再発見」

つい先日までスコット・マクナイト教授はカナダはバンクーバーにあるリージェント・カレッジの夏季学校の講師をしていたようだ。

バンクーバー在住のI・Aさんが、スコット・マクナイト教授に「福音の再発見」にサインしてもらったのをツィッターで紹介している。


なかなか達筆なのかもしれないが、やはりハンドライティングというのは読みにくい。

サインの下に何やら聖書箇所の引用があるようだが、12:29-31は分かるが、どの聖書かが分からない。

うまいことにミーちゃんはーちゃんが確実に回答してくれた。

ジーザス・クリードのスコット・マクナイトでしょ。
そうしたらマルコじゃないですか・・・。

イエスはお答えになった。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 

そりゃそうだわ。
言われて見れば確かにMkに見えるは・・・。

2013年8月3日土曜日

発売後の反応⑧

タカ牧師です。

「大和郷にある教会」ブログの方で、某読書会レポートを書いた。

その晩の読書会の冒頭、6月24日に東京ミッション研究所共催で持たれた学びでの講師、トーマス・ヨーダー・ニューフェルドのことを耳にした。

そんな絡みで、今回の「福音の再発見」読者の反応はこれ。

あるメノナイトの救い理解という記事。

2013年7月3日 福音聖書神学校・公開講座での、トーマス・ヨーダー・ニューフェルドの講演がまとめられているが、そこに「福音の再発見」との絡みで次のように言われている。
そこでスコット・マクナイト「救いの再発見」と並行する「福音」に関する新約聖書学的アプローチを見ておられるようだ。
今回は、メノナイトからの「救い」理解について語ってくださいました。
スコット・マクナイトの「福音の再発見」という本が出て話題になっていますが、講演の内容も、同じように、福音書からの福音の提示・パウロ書簡の義、信仰という単語理解の修正という流れに従うものです。
メノナイトらしく、(そして、私に言わせれば聖書に忠実に)和解を中心に組み込んだ、包括的な救い理解を語ってくださいました。
とのことです。

マクナイトはバプテストの出身ながら、今はかなりアナバプテスト的神学になっているようだ。
特に「福音の再発見」でも言われているように「イエスに従う(弟子化)」ことが福音と直結した課題であることを強調している。

どちらにしても、マクナイトも、ニューフェルドも、「救い派」のような矮小化された福音理解から、より包括的な福音理解へと、新約聖書の聖書神学的解説を行なったのであろう。

残念ながら、東京聖書学院(日本ホーリネス教団)は東村山にあり、度々東京ミッション研究所(不思議なことに依然として独自のHPを持っていない)から講演会の案内を頂くのだが、なかなか足が向かないのである。

今回はどうもミスしたようだ。